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義父から息子へつながる命

 

文=佐野洋一

今年5月、新大阪駅へ新幹線を見に行った筆者と息子
佐野洋一(さのよういち) 1980年大阪市生まれ。中国系大手パソコンメーカー勤務。琉球大学農学部卒業後、沖縄で就職、合わせて7年間沖縄で生活し、南国の雰囲気と泡盛に「飲まれる」。2005年10月、仕事の関係で遼寧省大連市へ移住しそのまま現在に至る。家族は中国人の妻と2歳の息子。趣味は仕事と、読書、子どもと遊ぶ、音楽全般、特に最近はピアノとソプラノリコーダー。好きなTV番組は、CCTV12「普法栏目剧(法律普及短編劇)」。

8月最後の日、大連。今年は秋が来るのが早い気がする。もう半袖だと少し肌寒い感じ。空を見れば今日は満月、旧盆である。私が以前住んでいた沖縄も、中国と同様、まだ日々の生活の中に旧暦が残っている。紙のお金を燃やし、死者を弔うのも同じだ。こんな日には、人間が誰もが経験する「死と生」について、回想してしまう。その両方を、私は2年前に経験した。

大連から北に約500キロ、遼寧省の錦州市内からさらに車で1時間ほど北上したところにある、義県という町。そこに私の妻の実家がある。義父と会ったのは、初めて妻の実家を訪れ、結婚の申し込みをした時、結婚式の時、他数回。初めて会った時のことはまだ覚えている。中国語もままならない日本人の私を温かく迎えてくれた。義父が「この家は私が自分で建てたものだ」と自慢気に話し、旧式のテレビを改造しリモコン操作できるようにしていたこと、井戸水の生活、トウモロコシの枯葉でかまどに火を起こし、その排気を通す炕(カン)と呼ばれる床下暖房など、中国東北部の農村の生活に私は一々感動した。義父はよく出稼ぎに行っていた。建設現場で図面を描ける技術者らしい。近年の建設ラッシュで、わりと引っ張りだこのようだった。

出産予定日が1カ月後に迫った3月、義父が入院しているという知らせがきた。出稼ぎから帰ってから、高熱を出し体調を崩した、日本では珍しいE型肝炎と診断されたということだ。肝炎とはただごとではない。義母と義妹が病院に付き添ったりしていたのだが、なぜかあまり多くを語ろうとしない。私は身重の妻を残し、まずは一人で錦州の病院に行くことにした。大連駅まで見送りに来た妻が、「私も行く」と急に言い出し、大した準備もないまま、二人で列車に乗り込んだ。翌日、病院に行くと、義父が、重篤な状況であることを目の当たりにした。その後、1週間ほど看病したが、手の施しようがない状態となり、錦州から義県の実家へ搬送され、息を引き取った。妻が3姉妹の長女ということもあり、夫である私が葬式で一番重要な役目を任せられた。3日間の中国農村式の葬式では何もかもが初めてのことばかりだったが、たくさんの親戚と共に義父との別れを惜しんだ。

そしてその約3週間後、今度は新しい命が誕生した。わが息子である。半ば興味本位で出産にも立ち会った。月嫂(ユエサオ、産後のお手伝いさん)を雇うなど、中国の産院は日本とはだいぶ違った。息子は苗字こそ父親である私と同じだが、名前には妻の苗字からも同じ発音の言葉を入れた。彼が義父の生まれ変わりと思うのは言いすぎかもしれないが、今となっては義父とたくさん話したり遊んだりできなかった分、息子と一緒に楽しく過ごせればなと思う。

人の生と死を通して、またひとつ大人になった気がする。

 

人民中国インターネット版 2013年1月28日

 

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