“昨天的电视剧怎么样啊?”
山本寛子
“昨天的电视剧怎么样啊?”(昨日のドラマ、どうだった?)
彼女はいつも満面の笑みでこう私に尋ねながら、小走りでベンチにやってくる。
今となってはこれがいつもの彼女と私の会話の第一声だ。現在、大学で中国語を専攻する私と北京の大学から交換留学生として日本に来ている彼女は、週に一回おしゃべりをすることが習慣となっていた。
父が中国語を勉強しており私は英語以外の外国語を何か始めたいと思い、父に「もちろん中国語を勉強するんやんな。将来一緒に旅行にいけたら楽しくなるやろな。」と言われ、また中国語なら日本語とほぼ同じ漢字を使っているし、“まあそんなに苦労しないか”とあまり考えもせずに、大学に入り淡々と大学生活を送っていた。
そんな私に、大学生活三年目にして転機が訪れた。友達に誘われ、大学で行われている中国語でおしゃべりする会に参加したのが、彼女との始めての出会いだった。連絡先を交換し、彼女のほうから二人でおしゃべりをしたいと誘いがあった。彼女は日本語を真剣に勉強しており、その手伝いになれば良いと思い誘いを受けた。しかし、彼女は私にも中国語を話す機会を与えてくれて、最初は中国語で話し、次に日本語で話すように決めてくれた。最初は緊張していて何を話したらいいのか分からず、また話したいことがあっても中国語でどう表現すればいいのか考えても言葉が出ず、沈黙の時間があった。
しかし二回目に私が最近見ている台湾ドラマの話題になり、彼女も日本のドラマを見ているとわかり話が盛り上がった。さらに同じ日本のドラマも見ていると分かり、それからこの言葉が私たちの会話ではお決まりとなった。
“昨天的电视剧怎么样啊?”
この言葉から私たちは昨日のドラマの感想から始まり、学校での授業のこと、中国と比べた日本の若者などについて話すようになった。話していくうちに、自分が中国について正しいと思っていたことや考えていた認識は、彼女と直接に話し聞くにつれて多少の隔たりがあることに気づいた。
いつしか私は、中国人を中国の人ではなく中国という国の人として認識し接していた。大学で学んでいる中国語を、中国という国の言葉として考えてしまっていた。そこには「中国」というフィルターを通してしか、中国を見ていなかった自分がいた。つまり私は中国人の中にある多様性を見落とし、中国人をみな一括りに考えてしまっていた。「中国」の人は同じことに対してきっと違う感覚を持っているはずだあるいは「中国」の人は私たちとは違うはず、などといったように。しかし、彼女と話すうちに私たち日本人と同じようにドラマで感動して泣いたり、おいしいものを食べると幸せな気分になったりというように同じ感覚を持っていた。
人は相手が自分と共通部分があると急に相手のことを身近に感じる。たとえば日本人同士でも、同じ出身地だとわかると急に親しみを覚え、故郷のことを共に語りたくなる。これはなにも、日本人同士だけではないだろう。たとえ国が違っていたとしても、話している言語が違ったとしても、好きな音楽が一緒だったり、趣味が一緒だったりすると人は自然と親近感が沸くのではないだろうか。お互いの違う部分を探すことよりも、同じ部分を探すほうがお互いを理解していくうえで大切ではないだろうか。
今回彼女と話すことで私は身近に生活の中でこのことを感じることができた。そのきっかけはたとえ小さなことでも、今後中国や中国の人と関わっていく上で大切なことを感じることができ、彼女と話せてよかったと思う。
私も中国に行く機会があれば、同じように中国と日本は違うと感じている中国の人々に、共通する部分はたくさんあることを気づかせることができる人になりたい。そのときには、彼女のように満面の笑みできっとこう言うだろう。
“昨天的电视剧怎么样啊?”