国境を越えて
久保山香菜
私が初めて中国に触れたのは四歳の時、叔父が中国人の女性と結婚を決めた時だ。家族から、「おじちゃんは中国からくる人と結婚するんだよ。」と言われた当時は、中国がどこにあるかも知らず、きちんと理解していなかったが、会えるのを心待ちにしていた。
「こんにちは、かなちゃん。」と、片言な日本語でにこやかに挨拶してくれたのを覚えている。話せる日本語は、「ありがとうございます」「わかりません」など、最低限の言葉だった。私たち家族が日本語で会話しているときは内容がわからないため、きょとんとしていた。
後から聞いた話だが、祖母と叔母はよく喧嘩をしていたという。初めて二人があった時、祖母は叔母をツンとしている印象で好きではなかったという。言葉が通じないことが一番のストレスだったようだ。食べ物も、祖母は日本食を息子に食べさせたいと思い、叔母にみそ汁の作り方などを教えたがうまくできなかった。叔母が作るのは手作りのギョーザだった。日本人でも嫁と姑の関係は食べ物や味付けの習慣をはじめとしてうまくいかないことが多いというが、国が違うとその違いも大きいのだと思った。喧嘩になると祖母はうっかり「中国人のくせに!」「日本の嫁はそんなことしない!」などと発してしまったという。
特に日本では、年配の方の中国に対する偏見が強いように思われる。祖母の世代だと日本人は日本人と結婚するのが当たり前だという考えが強いのではないだろうか。だから、祖母にとっては中国人と息子の結婚というのが受け入れがたいものだったのかもしれないし、中国がどんなところかわからないから、不安だったのだと思う。祖母と叔母は会うたびに喧嘩をしてしまって、お互いに歩み寄ることができなかったという。
いとこたちが、正月や夏休みに遊びに来てくれたが、叔母は来ない時が多かった。当時わたしは、なんで来ないんだろう、仲が悪いのかな、と薄々感じていた。
叔母は日本語が上達し、自動車免許やカイロプラクティックの資格を取った。もちろん日本語での試験に合格している。それを聞いて私はとても驚いた。日本人でも難しい試験に受かるなんて、とても努力をしたのだろうと思った。私が高校二年生の夏、叔母たちの住む愛知県に遊びに行った時には、私が小学生の時以来に会い、「大きくなったね!」と再会を喜んでくれた。私にカイロプラクティックの施術もしてくれた。話すときもとても流暢な日本語で、私達を驚かせた。
また、祖母がお年玉をいとこたちに贈ると、「私の子供にも同等な扱いをしてくださってありがとうございます。」と泣きながら言ったという。母の日にはカーネーションを祖母に贈ったり、「お母さんありがとう。」と電話をしてくれたり、その心遣いが祖母はとても嬉しかったという。
叔母は日本人の叔父と結婚すると決めてから、日本での暮らしに適応するため、日本語を覚えたり、免許を取得したり、友達を増やしたり、多くのことを成し遂げた。海をまたいで、親元を離れて生活をするというのは、覚悟や勇気がいるだろうと思った。言語の違いが叔母と祖母のようにすれ違いを生んでしまったけれど、感謝の気持ちやお互いを思う気持ちは国が違っても同じだと思う。
日本と中国の関係は、政治的な面からは決していい状態ではないということ、そして中国人のマナーが悪いなどということがメディアから流れていることが中国への偏見を生み出しているのかもしれない。だが、個人間でのやり取りをしてみると、決して悪い人ばかりではないことがわかる。直接関わったことがないのに、中国人を差別したりする日本人はよくないと思う。お互いに歩み寄って、理解していくことが大切なのだと思った。そして、理解するためにも中国の方と積極的に関わりを持ち、身近なところから良い関係を築いていくことが、今後につながっていくと思った。