お隣の国、中国
坂本花音
「中国は危ないよ、日本に残りなさい。」そう言われたのは私が8歳の時だった。父は中国に単身赴任して一年がたったころ、まだ当分日本に帰れそうにないということで母と兄と私と妹を呼び寄せた。近所に住むお婆さんに言ってみたらこう返された。彼女は第二次大戦を経験した人で、中国と日本の複雑な関係をよく理解していたのだろう。まだ小さい私にはそのことにおもいあたらず、お父さんっ子だった私は父と一緒に暮らせることがただただ嬉しくてその時は深く考えもしなかった。
私たち一家は遼寧省の大連にある、日本人街の真ん前にあるマンションに居を構えた。日本人学校に通っていた私が接する中国人といえば学校の先生や警備員、家に来る家政婦、運転手だけだった。買い物をする店の店員も。私がその人たちと接することでいやな思いをしたことがない。みんなにこにこと笑顔でいい人たちだった。私はすっかり日本でおばあさんに言われたことを忘れていた。そんなある日、兄が校外学習に行くというのでうらやましく思った。遠足のようなものだと思っていたからだ。だがその日帰ってきた兄は楽しい夕飯の時間もずっと暗い顔をしていた。兄が行ったのは私たちの住む大連からほど近い旅順だったのだ。戦時中に日本軍と中国軍が激戦を繰り広げた場所だ。まだ中学生だった兄には辛かっただろうと思う。母が私たちを一人で遊びに行かせなかったのも、道を歩いているときにみつめていた中国人の視線の意味も今では理解できる。齢を重ねていくうちに中国と日本の間にある確執に気付いた。飛行機でたった三時間なのに深い溝がある。私が生まれるよりも何十年も前のことだが彼らの心には日本への確執が残っているのだ。
高校二年の時にアメリカに留学した。高校には私のほかに中国からの留学生がいた。私はふと過去を思い出したがすぐに打ち解けた。仲が良くなってから彼女は日本人の私に最初は緊張していたことを打ち明けてくれた。両国の歴史が明るいだけではなくて多くの日本人が中国のことを嫌っているから。という。私たちは良好な友人関係を築いていたので、過去はいろいろあったけど私たちの間に何か起こったわけじゃないのだからそんなこと気にしなくていいでしょうと返した。それから帰国するまでいい関係を築けたように思う。その生活の中で授業がお昼までしかない土曜日に一緒に学校近くの中華料理店に行くことになった。入ってきた私と友人をみて中華系のシェフは中国人か?と嬉しそうに尋ね、私は日本人だと答えた。彼は少し複雑そうな顔をしていた。食べていると懐かしい昔食べた中国の味だというと中国人の友達も同意して二人で笑いながら楽しく食事していた。するとシェフがでてきたので本場の中華料理を思い出す、昔大連に住んでいたんだ。というと嬉しそうな顔をして、よく食べろよと私たちの肩を叩き、懐かしい甘い香りのする花茶を置いて行った。
日本に帰国して大学生になってからも日本文学を専攻している私は中国との縁がきれることはない。紫式部に至っては遣唐使が日本と中国の間を行き来していたころを生きていてかの有名な源氏物語には白居易の長恨歌からの影響がみられる。日本の文豪として名高い夏目漱石はもともと漢籍を勉強していた人間だ。かつての両国間の交流がなければ紫式部の源氏物語、漱石の坊ちゃんやこころなど数々の名作が生み出されることはなかっただろう。
日本と中国の関係は一口に言い表せるものではない。私に日本に残るようにいったおばあさんや、中国で冷たい目でみてきた人がいれば、幼い私を可愛いがってくれた人がいる。アメリカで出会った中国からの留学生やシェフのように関係を持ってみればわからない人がいる。私は、漱石や紫式部が後世に残るような素晴らしい文学作品を生み出したように日本人と中国人が交流することで開けてくる明るい未来を見てみたいと願っている。