2012年11月のある日、東京中国文化センターは来場者でごった返していた。会場の壁に展示された70枚近くの中国水墨画の前で、魅入られた参観者は、足を止めてじっくり鑑賞し、離れ難い様子だった。伝統的な中国画と違って、これらの作品では内的の境地に対する表現をより強調しているそうだ。流れる水と浮き雲のように流動し、変化するモチーフは、自然の迫力を表現し、人々を感動させる。
百人近くの来賓が注目する中で、古希を超えた夫妻がゆっくり登壇した。彼らこそ、画家の馬驍さん(72)と王狄地さん(73)夫妻だった。二人は日本に移住して30数年、このような絵画展を何度も開いてきたが、成功の背後には、人知れぬ辛い経験があった。
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中日の絵画法を一体とする馬驍さん、王狄地さん夫妻(写真・沈暁寧) |
中国人の父と日本人の母
馬驍さんと王狄地さんは二人とも中国中央美術学院付属高校卒だ。当時、馬さんが著名な画家の王式廓氏に師事したことがきっかけで、王氏の長女・王狄地さんと出会った。芸術への共通の追求と情熱によって、二人はすぐに親しくなり、卒業後に結婚した。
しかし、絵画によって結ばれた二人は憧れていたようなバラ色の人生絵巻を広げることはできなかった。それは中国人の父親と日本人の母親の間で生まれたという馬さんの複雑な家族構成のためだった。文化大革命(文革)中、彼らの家族はさんざん苦しめられた。馬さんの父親はこの間に亡くなり、母親は1970年に日本に帰国した。
1972年に中日国交正常化が実現し、1979年、文革が終結すると、馬さん夫妻は母親の故郷の静岡県に定住することになった。しかし、彼らを待っていたのは新しい苦難と試練だった。
苦難を乗り越えて東京へ
日本に来たばかりの最初の3年間は、お金がないうえに、言葉も通じず、夫妻は生計を立てるためにいろいろな仕事をせざるを得なかった。
王さんは染め物工場で働き、馬さんは貿易会社の営業マンも経験した。騙されて死者の肖像画を描かされ、3カ月たっても一銭も払ってもらえず、多額の材料費まで持ち出しだった。やっとのことで馬さんはある文房具店が開設した絵画教室で教えるチャンスが与えられたが、作品は店長にごみとして捨てられてしまった。
何度も挫折を経験したが、二人は日本社会で生きていく間に次第に、さまざまな人間関係を築いていった。1981年、馬さんは家族全員で東京に引っ越すことにした。この引っ越しをきっかけに、彼らの人生における新しい絵巻が広げられた。
平山郁夫画伯が称賛
東京に来て間もなく、二人は友人たちの支援の下、池袋で水墨画教室を開いた。王さんは子どもの世話をしながら、講師を務めた。王さんはまた外部の活動を展開していた。二人は支えあって、仕事に取り組んだ。
2年後、友人の紹介で、馬さんは東京・新宿の三越デパートで絵画展を開催した。展示期間中に、NHK『中国語講座』のテキストの編集者の一人が、馬さんの作品を見て気に入り、テキストの表紙の絵を依頼した。その後、馬さんは17年間も描き続けた。テキストの影響力によって、馬さんは次第に名前が知られるようになり、教えを請う人がますます多くなった。
ほぼ同じ時期に、夫妻は作品の画風を変え始めた。長い間、絵画指導してきた経験を活かして、彼らは中国の伝統的な水墨画の技法と日本文化とを融合させ、雲と霧のようなイメージの表現をモチーフとする画法を編み出した。
このような改変は著名な故平山郁夫画伯に「非凡な造形力がある」と称賛され、夫妻はさらに大きな舞台に飛躍できた。
大勢の弟子が懸け橋に
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日本の絵画愛好者に中国画の技法を教える馬驍さん(写真提供・本人) | 馬さんは、生徒たちに中国の水墨画の技法を日本の題材に用いる作品を創作させたい、と語る。1979年に日本に来てすぐ、二人は「馬驍水墨画会」を設立した。最初の会員はわずか数人だったが、今は、門前市を成すほどにぎやかな光景だ。30年以来、二人は自分たちの理念を堅持し続けている。また、自分たちの影響力で新人画家を日本社会に紹介し、「中和折衷」の絵画スタイルが根を下ろして芽生えるように努めている。
現在、日本の各地に二人の弟子が大勢いる。彼らの影響力の下、絵筆を持ち始め、中日両国の間で友情の懸け橋を描くようになった人はますます増えている。
人民中国インターネット版 2013年3月26日
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