日本の救援隊員「四川にまた行きたい」
日本の救援隊員「四川にまた行きたい」
四川大地震の救援活動に参加した日本救援チームの隊員、島田一郎氏がこのほど、「国際先駆導報」記者の取材を受けた。取材の内容は次の通り。
1年ぶりに再会した島田一郎氏は、最初に会ったときのように日焼けして顔が黒かったが、当初のやつれた様子はもうなかった。この東京消防庁第6部隊の消防指令はかつて、5.12地震発生後、他の日本国際救援チームの隊員60人とともに、被災の深刻な青川県と北川県での救援活動に参加した。
日本では何度も被災地での救援活動に取り組んできた島田氏だが、海外での救援は初めてだった。08年5月15日午後6時、荷物を背負って北京行きの航空便を待つ島田氏の心はずっしりと重かった。「四川が重慶からとても近いことは知っています。前に重慶で開催された中日サッカーの試合で、中国のサッカーファンが大騒ぎしていた。救援チームが四川に到着しても歓迎されないのではと心配です。救援隊員として、任務の遂行に意識を集中することが最も重要なのはわかっています。でも心配でなりません」とこぼしていた。そして現場に到着後、島田氏の心配は一瞬にして消える。被災地の人々は日本救援チームに対して思ってもみなかった態度をとってくれたのだ。
任務遂行1日目、地元政府が隊員らに夕食を準備していたが、隊員らはそれを断り、1秒を争い夜を徹して生存者の捜索にあたった。「すでに時間が経ち、人命救助の見込みは薄かったが、われわれは奇跡が起こるのを信じていた」。
今でも日本救援チームが遺体の傍に立って黙祷を捧げていた写真が多くの人の記憶に深く刻まれている。島田氏によると、日本の救援隊員は北川中学以外のどの救援現場でも黙祷を捧げていたという。「祈りながらも申し訳なかった」「頭を深く下げている時の気持ちは複雑だった」と島田氏は当時を振り返る。
救援に参加した最初の瞬間から島田氏の心には、「必ず生存者を救ってみせる!」という強い信念が生まれた。この信念が被災地での日々を支えた。しかし、最後の結果は非常に残酷なものだった―とうとう彼らは一人も生存者を見つけることはなかった。
荷物を持って成田空港に到着した島田氏の心は出発の時よりも重かったに違いない。以前の不安はなくなったが、深い深い挫折感が残った。「日本に帰国後、身体の疲労感は二週間でなくなったが、挫折感は強烈に残り、2カ月以上続いた」と振り返る島田氏。「テレビで四川の画面を見ると、それがパンダや九寨溝のCMであっても、心の底にある挫折感が蘇ってくる」。
島田氏は日本で心理カウンセリングを受け、罪悪感は徐々に消えていった。しかし、「挫折感は一時的に薄らいだだけだ。もしかすると影のように一生僕につきまとう」と島田氏。機会があればまた四川に行ってみたいという島田氏は、「様々な困難を克服し力強く生活している四川の人々をこの目で見たい。そして、かつて私たちを熱心に助けてくれた人々や、共に奮闘した北京と綿陽の消防隊の戦友たちに会いたい」と語る。
2008年5月から2009年5月の1年間はあっという間に過ぎた。「被災者にとってこの1年は、苦労の耐えない一年だったに違いない。本当に頑張ってほしい!」という島田氏にとって四川は常に思いを寄せる場所となった。距離は離れていても、彼の心はすでに被災者たちとつながっている。
「人民網日本語版」 2009年5月12日