People's China
現在位置: 遼・金王朝 千年の時をこえて

遼・金王朝 千年の時をこえて 第20回

 

 宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907〜1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115〜1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に、北京は初めて国都となったのである。

 

北京に残る金の中都遺跡

女真族の最初の皇帝である完顔阿骨打が金帝国の成立を宣言したのは1115年であった。この王朝はその後119年続くこととなる。女真族が1125年に遼の燕京(現在の北京)を攻め陥して遼を滅ぼし、さらに1127年、宋の首都汴京(開封)に侵攻した後、金は中国北部の大部分をその支配下に収めた。第4代皇帝完顔亮(1149〜1161年在位)は後世、海陵王として知られるが、国都を北方の会寧府から燕京へ移す大英断を行った。海陵王は城郭の大々的な再建に力を注ぎ、ここを中都と名付けた。北京が帝国の主首都となった最初であるが、この遷都には様々な理由があった。先ず、その戦略的位置である。帝国の中心に位置し農業地帯に近いこと。もう一つの重要な理由は、政治の中心を女真王族内で中華風の統治機構に反対する一部勢力から遠ざけることにあったと思われる。海陵王はまた女真皇族の先祖の墓を中都の西の地へ移し、金陵を築くという大胆なこともやってのけた。

百万を超える人々が、新首都建設に投入され、2年以上かけて完成させたと言われている。「正定から木材が、そして涿州から大量の土が運び込まれた」との記録がある。中都は遼の燕京より相当広い地域を占め、基本的に今日の北京宣武区の辺りに位置する。城壁には12の城門があり、北側の城壁は白雲観のちょうど北を走っていたようである。東の城壁は現在の陶然亭公園を縦断し、南の境界は涼水河であり、西の城壁は豊台区まで延びている。

金中都の水門の複製品。現在の豊台区右安門の南に位置する遼金城垣博物館

この都は1214年のモンゴル軍侵攻により焼き払われるまで、61年間首都であったが、当時の都市建設の跡は現在の北京にもはっきりと残っている。

2003年9月、金中都の850年祭がとり行われた。私自身も、主要行事の全てに出席した。北京市国際会議場では外国からの参加者を得て、3日間熱気溢れる意見交換が行われた。女真族の遺物を今日に伝える展示会が開かれ、金の宮殿だった大安殿跡地で往時の姿を想像しながら式典が催された。この地点を記念するために青銅製の高い柱と女真の特徴である坐龍の像が四方に向けて建てられ、同時に青銅で造られた中都の地図の除幕も行われた。この地に立って、私は北京の歴史につながる金時代から残っているものが何かないかと想いを巡らせた。もちろん、当時の建築物は全く現存していないが、中都の姿を想像するに足る水路や庭園といった手がかりはある。さらに、仏塔、橋、石彫、刻文や陵墓の壁画が金中都の歴史と文化の様子を教えてくれる。

1990年、現広安門の南の発掘からわかったのは、首都の中心に位置する皇宮地区には多くの大殿や庭園、そして小さな湖があったということである。この魚藻池(太液池遺跡)は今では青年湖と呼ばれており、新しい住宅地区の中にある。もっとも、この金代「同楽園」の中で皇帝の宴会が行われたものを示す痕跡は何もない。しかしこの場所は市中を流れる川筋を知る上で、非常に重要である。中都の主水源は、西北城壁の外にある西湖(現蓮花池)で、近年その北側に巨大な北京西駅が建設された。恐らく、蓮の花は海陵王の命によって植えられたのであろう。私が初めて蓮花池を訪れた時、湖は荒れ放題で干上がっていたのだが、北京大学の侯仁之教授らの尽力で再生することができた。侯教授は当局に湖の歴史を説明し、地下水の存在の重要性と自然保護が西駅周辺の環境改善に役立つことを納得させた。12世紀の詩人趙秉文はこの湖の美しさを「倒影の花枝は水に照らして明らかなり」と詠んでいる。

地図中に遼南京と金中都の城壁が認められる

1990年に豊台の右安門の南で発見された水門は城壁を抜けて水が涼水河へ流れ込むようにするためのものである。この精巧な下水道は21メートルの長い暗渠で、鉄と煉瓦を蝶の形をした枘(木製の止め具)で支えた平らな石板の床で出来ている。現在、遼金城垣博物館がその廃墟の上に建っているが、地下に降りれば、この暗渠を看ることができる。西湖や魚藻池のように、この水門の様子から、金中都の姿をある程度知ることが可能である。精力的に調査を進めれば、中都の城壁跡を発見することも困難ではないが、幾星霜を経て、ほとんど崩れかかっており、往時のような堅固な盾の姿とは程遠い。土を固めてできた城壁の跡は、煉瓦造りの小屋や工場の敷地の中に隠れているが、今でも見る者の心を打つ。豊台区に残っているものは、灌木でおおわれていて、よほど想像力をはたらかせないと、高さ20メートルもあった往時の様子を想像するのは容易でない。

市中や周辺の庭園、湖は現在の釣魚台のように金皇帝の行宮の一つとして造られたものである。北京の中心部にある湖もまた河床を拡張して造られた。北海公園の二つの高台、琼華島と団城は1179年に万寧宮造営のために使用された。宮殿は宋の首都汴京の宮殿を模したものであるが、本物と見まがうほど非常に精巧に造られていて、家具や美術品そして太湖石までも、全て1127年に南から奪って持って来たものである。団城には昔日のおもかげを偲ばせる大木が茂っている。その一つは、樹齢800年といわれる白皮松で、要塞城壁の上まで枝を張っている。清代の乾隆帝がこの樹に「白袍将軍」の称号を与えたとの言い伝えがある。

金中都の下水道設備。21メートルに及ぶ平たい石疊の暗渠 趙励墓壁画(1123年)。茶を供している図(備茶図)。2002年に石景山区八角村の墓から発見。複製品が遼金城垣博物館に展示されている

海陵王は中都を建設し、金王朝の政治的基盤を強固にした貢献によって歴史に確固たる足跡を残している。他方、この皇帝は残忍な性格の為、最後は自らの配下たちによって、1161年に暗殺されてしまい、彼の後継者は、皇帝の称号を廃し、金陵に葬ることを許さなかった。

女真文字。金啓琮の書「文苑英華」
新皇帝世宗は28年に及ぶ在位の間、金文化の保護に力を注いだ。彼は女真族が余りにも中華風に染まり、武人の魂を失いつつあることを危惧していた。武術を磨くために狩猟の遠征が度々行われ、服装についても女真族の伝統を重んじるよう奨励した。世宗の治世の間は、女真語や既に完成していた女真文字を使用することが重視された。漢字の書物を女真語に翻訳させ、女真族の大学を設立したとの記録もある。

金中都の記念行事で、私は女真文字の権威である学者と知り合う幸運に恵まれた。金啓琮先生は、清の康熙帝の末裔である。満州族は女真を自らの先祖としており、女真語への関心も清代に復活したのである。金先生の説明によると、女真文字も12世紀初頭、契丹文字と同様、2種類の文字が創られたとのことだ。これらの文字は、碑文や銅鏡に今も残っている。別れに際して、金先生は女真文字を使って自ら揮毫した書を贈ってくれた。

世宗はまた運河の建設を進め、農耕地帯から穀物を中都へ運ぶ水路を河につなぐ工事を行った。1171年には、金口運河を掘って、西方の永定河の水勢を吸収することを命じたが、この運河は城郭の北濠とつながり、東方は通県の水路と通じていた。運悪く東側の傾斜が急過ぎたため、水流が速く輸送の用には立たなかったようで、現在は首都鋼鉄の側を走る鉄路の下の深い溝になってしまっている。近くの川の東岸に大きな石組が見えるが、これは恐らく1177年の大洪水の跡に造られた堤防の一部であろう。

西四交差点の万松老人塔

世宗の孫の章宗は1189年から1208年までの間在位したが、この時期は金文化の最盛期であった。章宗の治政下で法典の編纂が行われ、文学や演劇も花開いた。この皇帝は中都の美しさを愛で、有名な「燕京八景」を後世に残している。明代の書物にも八景が記載されているが、必ずしも金時代のものと同じ場所ではない。清朝に至り、能筆で知られる乾隆帝が「燕京八景」の美を改めて讃えるべく、それぞれの場所に自ら名称を記して、大きな石碑に刻ませた。八景のうちいくつかは、例えば「盧溝暁月」「西山積雪」「居庸疊翆」、そして「玉泉垂虹」など、その位置が明確になっている。私達はそれらの場所で章宗が見たのと同じ風景を愛でることができる。章宗の時代は、1192年の盧溝橋の建設に代表されるように、土木技術の発達が著しく、1215年には玉泉山から泉水を昆明湖まで引く水路を造り、さらにそれを市北方の高梁河へと引き込んだ。この2大土木工事はその時代の経済の繁栄ぶりを示すものといえる。

仏教信仰も金代社会の重要な要素であった。女真人は契丹と同じように、仏教を厚く敬ったが、寺院の経営や僧侶の受戒等については、厳しい制限を設けていた。金王室は中都一帯の100を超す寺院の建設と修復に下賜金を供している。中都の内にも約20の寺があり、なかでも名刹とされるのが、憫忠寺(現法源寺)と聖安寺である。宣武区にある憫忠寺は東側の宣曜門から城内に入って来る人々で込み合う大通り沿いの城壁のすぐ内側に位置している。この寺は仏典出版の中心であったため、遼・金時代を通じて、もっとも重要な寺院であり、加えて金の文官試験を行う場所としても重要であった。1127年、宋の欽宗皇帝が捕らえられ、寺の井戸のある庭に幽閉されたというのもこの憫忠寺である。ここには今も遼・金時代の遺物が保存されている。聖安寺は近くの南横街の西端に1167年に建てられた。金代にこの場所に世宗と章宗の像が建てられたようだが、文化大革命の時に跡形もなく破壊されてしまった。今聖安寺の跡地は回族(イスラム教)の幼稚園に生まれ変わっていたが、今なお、金中都の名残りを留めていた。

市内には、もう一つ往時の仏教の歴史を伝えてくれる場所がある。それは、800歳の万松老人塔で西四交差点の南、磚塔胡同の中に建っている。この八角型の塔は元代初期に造られたが、金代の最も権威の高い僧の一人である行秀法師を祀っている。行秀は華厳と禅、さらに道教と儒教まで取り入れた教義を説いたことで知られている。彼の名声はその弟子に耶律楚材がいたことによって、一層高まった。万松老人塔の周囲は過去20年の間にさまざまな変化があったが、ようやく塔を取り巻く空き地が確保された。

中都の歴史から北京一帯をみると、現在の都市の発展の基礎がこの時代に築かれたことがよく判る。多くの庭園や水路は昔のままに今も使われている。中都は女真族の首都としては短命であったが、その後に続くいくつかの政権の重要な政治の中心地として生き続けているのである。

 

人民中国インターネット版 2010年9月

 

 

同コラムの最新記事
遼・金王朝 千年の時をこえて 第20回
遼・金王朝 千年の時をこえて 第19回
遼・金王朝 千年の時をこえて 第18回
遼・金王朝 千年の時をこえて 第17回
遼・金王朝 千年の時をこえて 第16回