北京市大柵欄の内聯昇 足にやさしくなじむ老舗の布靴
魯忠民=文・写真
かつて北京ではこんなふうに言ったものだ。「靴を見れば、(裕福な)旦那かどうかわかる」
メンツを重んじる昔気質の北京人は非常に靴を大切に考えている。「頭に馬聚源、身体に瑞蚨祥、腰に四大恒、足に内聯昇(陞)」という流行り言葉もあった。これは北京の代表的な四つの老舗を指すもので、「馬聚源の帽子をかぶり、瑞蚨祥シルク・布店のもので仕立てた服を纏い、腰につけた財布の中には「恒」という字のついた四つの大きな私営の金融機関(恒利、恒和、恒興、恒源)の銀兌換紙幣があり、内聯昇の靴を履いている」という意味である。いわば最近の有名ブランド、ベンツの車、ロレックスの腕時計、ゼニアのスーツ、アルマーニの靴など、高い身分を象徴するようなものである。百年あまりにわたって、朝廷に仕える文官武官が履いているのは内聯昇製の「朝靴」で、ラスト・エンペラーが即位したときに履いていたのも、内聯昇製の「龍靴」である。毛沢東、周恩来、朱徳ら、中国の多くの著名人もみな内聯昇の布靴を好んで履いた。
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百年続く老舗「内聯昇」の本店 |
千層底布靴作りの一番重要な作業、靴底の刺し子縫い |
現在、布靴はいささか時代遅れの感があるが、内聯昇の布靴を家の中で履くのを好む人々もいる。とくにお年寄りには少なくない。毎年、内聯昇の布靴は25万足が市場に出る。価格についていえば、内聯昇の布靴は普通のゴム底の布靴の十数倍にもなるが、実際に履いている人によれば、品質がとてもしっかりしており、履き心地が非常に良いという。
2008年6月、内聯昇の千層底(布を何十枚重ねて細かく刺し縫いをした厚手の靴底)の布靴制作技術は中国国家クラスの無形文化遺産リストに登録された。
150年を超えた老舗――内聯昇
内聯昇の本店は北京前門大街の大柵欄にある。ここは北京の老舗がどこよりも集まっている場所である。150年あまり前、創始者である趙廷は幼いころから身につけた靴作りの技術、管理の経験もとに、咸豊3年(1853年)に丁という姓の将軍の資金援助を受け、靴の専門店「内聯昇」を創業した。「内」は内裏、すなわち宮廷のことであり、「聯昇」はこの店の「朝靴」を履けば、仕官への運が開け、三段階昇進できるとほのめかしている。内聯昇は、朝廷の役人を購買層として「朝靴」を作ることから始まったのである。
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3階にある展示ホール。内聯昇や千層底布靴の工芸技術が紹介されている |
店の中に設けられた展示コーナー。千層底布靴の手作業の過程が見学できる |
内聯昇の布靴の靴底は32層になっており、「千層底」と呼ばれている。一平方寸(約9平方センチ)ごとに麻糸で81から百針の刺し子縫いがされ、その針目が均等に分布し、丈夫でしっかりとしたつくりになっている。趙廷は独自の工夫を凝らし、店に靴を作りにやってくる文官や武官のためにカルテを作成し、一人一人の靴のサイズ、デザインなどを記入し、顧客が再び靴を買うときには、使いの者が来て知らせるだけで、資料に沿って要求された靴を迅速に作って送り届けることができるようにした。こうして、この北京城内の王侯貴族たちの靴を作るときのサイズ、好みのデザインを詳しく記した『履中備載』は、歴史的に貴重な資料となっている。この伝統は現在までずっと続いており、毛沢東、周恩来、鄧頴超ら新中国の指導者たちの足の資料もその中にある。
内聯昇は古色蒼然とした趣のある四階建ての建物で、一階、二階が売り場、三階は展示ホール、四階は事務所になっている。一階から三階のフロアには、それぞれ扁額が飾られている。一階にあるものはかつて国防部部長であった張愛萍(1910~2003年)が店名を、二階にあるものは著名な文化人である郭沫若(1892~1978年)がやはり店名を、三階のものは、著名な仏教人士趙朴初(1907~2000年)が「歩履軽盈」の四字を揮毫したものである。
店に入ると、東側に実演エリアがあり、50歳の師匠と若い女性が布靴を作っていて、少なからぬ来客の目をひきつけ、足を止めさせている。常に年配の人が、それを見ながら若手に布靴はどのようにできるかを説明している。中国では、1950年代から60年代以前には、多くの家庭で履いていた靴は、その家の女性が手作りしたものであった。
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外国人客の足のサイズを測る蔡文科さん。履き心地のよさは正確にサイズを測ることにかかってくる |
「内聯昇千層底布靴製作技芸」の伝承者と認定された何凱英さん(右2)と3人の弟子(写真提供・内聯昇) |
筆者自身、母が端切れを集め、小麦粉を糊にしたものを、木の板に重ねて塗り、干していたのをよく覚えている。そのうちの一部を切り取って靴底にし、白く細長い布で端を包み、十数層重ねる。それから添え板でしっかりと固定し、キリで靴底に穴をあけてから、針で麻糸を通し、丁寧に靴底を刺し子縫いする。さらに別の部分に黒や模様入りの布を張れば、靴のアッパー(甲の部分)ができあがる。最後に靴のアッパー部分を靴底に縫い付け、木型を用いて靴を広げれば、靴の完成である。現在内聯昇の靴作りの技術は、明らかに民間の靴作りの方法をさらにレベルアップさせたものである。違うところといえば、その材料にこだわり、さらにすばらしい品質となり、デザインもより美しいものとなっただけである。靴底に刺し子縫いをしていた王さんによれば、一枚の靴底に千針以上の刺し子縫いをするため、彼女のような熟練の職人でも、完成までには十二時間ほどかかるという。
なるほど、筆者が幼いころ、女性たちが常に針と麻糸を手にし、朝から晩まで靴の刺し子縫いをしている光景を目にしていたのもうなずける。それは非常に手間のかかる作業なのである。伝統的な中国の女性は夫を支え、父母を敬い、子供を育てながら、さらに家族全員の服を縫い、靴を作らなくてはならなかった。「慈母手中線(母の手に糸があり)」という光景は、数えきれないほどの文学作品の中に描かれ、やさしい母への敬愛の思いを呼び起こすものとなっている。
清の末期、国運が衰えると、内聯昇も戦乱を避けるため引っ越しを繰り返した。最初の東江米巷(現在の東交民巷)から前門大柵欄に移ると、二代目当主の趙雲書はそれまでの店舗工場一体型の伝統を打ち捨て、靴作りの作業場を店舗近くの横町に置いた。現在、内聯昇は自社工場のほか、複数のチェーン店を持つまでになっている。