広西チワン族自治区南丹県 歴史が秘められた白褲ヤオの民族服
魯忠民=文・写真
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白裤ヤオの女性の民族服 |
2004年、広西チワン族自治区南丹県里湖郷懐里村に初の白褲ヤオ生態博物館が建設された。村の入口に民家式建築を建て、白褲ヤオの民族文化財の収集・保管・陳列のための展示センターとした以外にも、この博物館には、懐里村の蛮降、化図、化橋の三つの部落、180戸の家、4千人余りの住民も含まれる。この地の自然風景、建築物、生産・生活用品、風俗習慣などの有形・無形の文化要素が、すべてこの生態博物館の展示内容となっているのである。
筆者が懐里村を訪れた際、生態博物館のガイドで現地白褲ヤオの女性黎夏さんが案内してくれた。彼女と同僚の一人は、観光客の接待やガイドの仕事以外にも、村の白褲ヤオの民俗活動の記録作業をずっと続けている。ちょうどここ数日、村で葬儀が行われており、今日が最も盛大な埋葬の日ということで、村の道は、どこもかしこも盛装して葬儀に参加しに来た白褲ヤオの男女であふれていた。
厳粛で盛大な葬儀
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棺の後につき従う白裤ヤオの男たち |
掘られたばかりの墓穴の前で、祈祷師が埋葬の儀式を司る。無事埋葬が済むと、墓碑を立て、牛の頭を木の杭に掛けて、全員がひざまずき、哀泣する。その場面は非常に感動的である。埋葬を終えた人々は、空き地に戻り、数百人が秩序だって臨時に設置された長い食卓に座り、共に食事をとる。各人が牛肉一塊りともち米ご飯一杯にありつける。
牛を犠牲にして死者に捧げる儀式は、葬儀の中でもとても重要な行事で、それは白褲ヤオが、牛は祖先が開拓したときの仲間であり、先人たちが世を去るとき、牛にそのお供をさせるべきだと考えているからである。牛を捧げる儀式は埋葬の前日に、銅鼓が鳴り響く中行われ、まず牛に拝し、牛のために泣き、そして牛を犠牲にする。
白褲ヤオは原始社会から直接現代社会に入ってしまった人々で、葬儀は厳粛かつ荘厳で、これは死者に対する哀悼の意のみならず、みんなで共に行う祖先崇拝の儀式でもある。葬儀の全過程、とくに人々が白褲ヤオの服装を身につけていっせいに集まる壮大な場面は、とても驚嘆させられた。
模様に込められた民族史
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白裤ヤオの女性のプリーツ・スカートと背中飾り |
白褲ヤオの女性の民族服も5点だ。衿も袖もない青い貫頭衣、冬は右前の袖付きの服、ろうけつ染めあるいは花模様の刺繍がある背中飾り、ろうけつ染めのプリーツ・スカート、そしてベルトとゲートルだ。女性の背中飾りに刺繍された濃いオレンジ色の四角い模様は、土司(土着の権力者)に奪われたヤオ王の印鑑の痕跡だという。夏服は「掛衣」と呼ばれ、袖がなく、前も後ろも一枚布で、両肩と裾を黒い布を使ってつなげている。そのため、脇の下は全部開いており、下着もつけず、胸を隠さない。これは女性と生殖に対する崇拝を表しているとのことである。
翌日、黎夏さんは蛮降屯の典型的な白褲ヤオの家に案内してくれた。それは「干欄」式建築と呼ばれる土と木材で造られた高床式の家屋で、階段の下で家畜を飼育している。三間続きの部屋は、広くて大きいが少しうす暗い。通常、女性は入口のところに座って衣服を縫う。囲炉裏のそばにいるおじいさんがお茶を飲まないかと誘ってくれた。おばあさんは裏に置かれた織機で布を織っている。「こちらが舅で、布を織っているのが姑です」と、黎夏さんが紹介してくれた。白褲ヤオは閉ざされた辺ぴな山地で、男性は農耕し、女性は布を織るというような自給自足の暮らしを送っている。着ている服はみな手作りで、自ら綿花を植え、糸を紡ぎ、布を織り、それを縫い合わせ、ろうけつ染めや刺繍を施すまでの過程を、すべて女性の手で行う。おばあさんは今年68歳で、一生苦労して、4人の子どもを育てあげた。子どもと夫の服はすべて彼女が手作りしたものだ。息子の陸朝金さん(黎夏さんの夫)は今年36歳で、広西民族学院を卒業し、現在は副郷長の職に就いている。彼は母親が作った晴れ着を3着持っている。1着目は16歳の成人式に着たもの、2着目は結婚式に着たものだ。黎夏さんと夫は共に自分の母親が祝福を込めて手作りした晴れ着をまとって、伝統的な白褲ヤオの結婚式に臨んだ。
服が出来上がるまで
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女の子のプリーツ・スカートと背中飾り。背中飾りの模様は、彼らがここにたどり着く前に住んでいた故郷の様子を示している |
毎年4月に綿花を植え、8、9月に収穫する。一世帯で毎年約1ムー(約667平方メートル)の畑を耕し、12.5キロの綿花を収穫する。紡いだ糸からは1匹の布を織ることができ、その幅は約0.5メートルで、白褲ヤオ男女の服をそれぞれ5組仕立てられる。
白褲ヤオの女性の上着とスカートはろうけつ染めで作られ、それには地元特有の粘膏樹の樹液が使われる。普通、4月に粘膏樹を切って20日にわたって樹液を集める。使うときは樹液を鍋に入れ、適量の牛脂を加えて沸かす。
白い布をまず板の上に広げ、木の棒あるいは玉石で滑らかになるまで叩いてから、専用のヘラで煮立った粘膏樹の樹液で模様を描く。ヘラは長さ約16センチで箸ほどの細さに加工された竹に、斧の形の銅片を取り付けたものである。大きなヘラは大まかな直線や曲線を描くときに使い、小さなヘラは小さな模様を描くときに使う。
秋に入ると染布の季節になる。染物用のかめに藍と酒を入れ染料を作ってから、模様が描かれた布をかめに2時間浸して取り出し、木の板の上で半ば乾かし、再び染料のかめに戻す。これを1日3回繰り返して、半月続ける。その後、染め上がった布をアルカリ性の水の入った鍋に入れてよく煮込んで、樹液を取り除く。その後、樹液がついていた部分も藍色に染まるように布を染料のかめに一回入れて、取り出して干す。最後に、ワラビの根と水で作った液体に浸して色を固定させ、野生の淮山(草本植物)をきれいに洗って皮を剥ぎ、つき砕いて濾過して取った汁に布を浸して、ハリをもたせてから、刺繍を施して服に仕立てる。
白褲ヤオは文字を持たないが、服の模様に古く素朴な民族文化が秘められている。上着の前身頃が真っ黒なのは、「前方の道は未知だ」ということを象徴する。後ろ身頃に土地、水車、野菜畑、家屋、オンドリなどの図案があるのは、「われわれは山があり水があり町があるところからやって来た」という民族の記憶を示したものである。白褲ヤオの祈祷師の祈祷文によると、白褲ヤオの先祖は、江蘇の糯米街から貴州の独山に移り、さらにここにやってきたようだ。
何軒かの家を訪ね、針仕事をしている中高齢の女性を何人か見かけたが、若い女性の姿はまったく見かけなかった。「現在、若者たちはみな出稼ぎに行っています。しかも伝統的な服の仕立ては相当手間がかかるので、習おうとする若者はほとんどいません。白褲ヤオの服の仕立て技法は伝承されないかもしれません」と黎夏さんは言う。
伝統の継承
南丹県にある古い建物に、広西民間工芸大師の称号を持つ譚秀仙さんを訪ねた。譚さんは50代のチワン族の女性である。奥の部屋には、白褲ヤオとチワン族の美しい民族服と刺繍品がたくさん収蔵されており、古い織機、紡績機、刺繍用の棚、染物用の道具などもある。
譚さんは小学校を卒業する前に、家に戻って母親について刺繍を習った。母親の厳しい指導の下で、彼女の注意深く、根気よく、うまずたゆまずやり抜く性格が育てられ、傑出した腕も磨かれた。現在、譚さんの主な仕事は若者を指導し、地元の白褲ヤオとチワン族の女性を組織して、民族衣装や観光記念品を作ることだ。南丹県の中心広場にある民族工芸展示館では、彼女または彼女の組織によって作られた白褲ヤオの民族服と工芸品が展示されており、見学者や買い付け業者、収集家の購入・注文を受け付けている。
現在、譚さんは三つの夢を持っている。一つは自らが収蔵している白褲ヤオの民族服、民族刺繍品、織機や工芸品などを大都市で展示すること。二つ目は地元の少数民族の人々の収入が増えるように、注文を増やすこと。三つ目は民族の工芸技術を大切に伝承してゆくことである。
人民中国インターネット版 2012年11月20日