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山東省濰坊市楊家埠の木版年画 凍てつく冬に賑わいを手作りの素朴な温かみ

 

魯忠民=文・写真

楊家埠村は山東省潍坊市(以前の潍県)の北東15キロのところにあり、潍坊市中心部からバスで1時間ほどの距離である。周囲は平坦な地形で、交通も便利だ。私は20年前にここを取材で訪れたが、今回再びやって来てみると、村のかつての素朴な景色は一変しており、古い建物はすべてなくなっていた。広い道の両側には、古建築を模した新しい灰色のレンガ造りの建物が立ち並び、そこにはさまざまな看板が掛かっていて、みな木版年画(お正月に飾る中国民間絵画)とたこを商っていた。

「年画なくては年も越せぬ」

版木を刻む楊洛書さん

道を尋ねつつ、ようやく木版年画職人の楊洛書さんの家にたどり着いた。表門をくぐると、庭の向こうにある2階建ての建物が年画の工房だった。中では何人もの職人が机の前で木版年画を刷っている。部屋にある山のような版木や壁に掛かる多くの年画が、昔日の年画工房の雰囲気を思い出させた。違うのは、工房が広く明るくなったことだ。

楊さんは今年85歳で、村で最も有名で年長の職人だ。2002年、ユネスコから「民間工芸美術大家」の称号を授けられた。家の壁には彼が今までにもらった賞状や証書がたくさん貼られていた。彼は豪快でさっぱりした性格で、木版年画のことを語り始めると、いつも長話になる。

楊さんは中肉中背で、人々の脳裏に浮かぶ「山東の大男」の姿とはまったく異なる。実は楊氏一族の祖先楊伯達は、かつて木版彫刻業の中心と呼ばれていた四川省梓潼県からやって来たと、『楊家埠村志』や『濰坊県志』などの史料にはっきりと記されている。彼は明朝の洪武年間(1368~1398年)、木版年画の技を持って今の山東省濰坊市にやって来て、600年余の歴史を持つ年画の店「同順徳」を創立した。清朝の乾隆年間(1736~1795年)、楊家埠村は「工房が百店、年画の種類は千種以上、版木が数万枚」と言われるほどで、年画の販売量は年間数千万枚に達し、周辺の民間の需要を満足させただけでなく、江蘇、山西、河南、河北、東北三省、内蒙古にまで売られ、天津の楊柳青、蘇州の桃花塢と並ぶ、中国民間三大年画の一つに数えられるようになった。

かつての楊家埠木版年画は、旧暦12月前後に売られ始め、町の年画販売の老舗や市の露店では、数百種類以上の年画が壁に掛けられたり、地面に広げられたりして売られた。買うのはだいたい周辺の農民で、これを手にとってはまたあれを見と、非常に安くさまざまな美しい年画を買うことができた。家に買って帰ると、大門に門神(魔よけの神さま)を貼り、表門の内側にある目隠し塀に「福の字灯」を掛け、「福・禄・寿」三人の年画を広間に、かまど神の年画をかまどに、「月の絵」を窓に、「美人条」「金童子」などめでたい絵を寝室に貼った。水がめ、ウシや家禽の小屋、荷車、穀物倉庫に年画を貼ることもあり、本当に貼らない所がないと言ってもよいぐらい、年画で家の内外を飾り立て、どこからも喜ばしい雰囲気が伝わってきた。また、年画には別の用途もあった。楊家埠一帯には、娘が嫁ぐ時、嫁入り道具箱の奥に「三宝画」を入れる習慣があった。すなわち「春宮図」、「張仙射狗」、「麒麟送子」の年画を入れ、新婚夫婦の性教育を行い、早く子どもが生まれるように、子どもが健康に成長するように祈ったのである。

当時、楊家埠はどの家も年画工房であり、10月になると年画を製作し始めた。見本を模写し、下絵を描き、木版を彫り、印刷と表装を行い、市で売り、とても忙しかった。楊家埠の木版年画は豪放な雰囲気をもち、色が鮮やかで、描かれる内容も伝統的な縁起のよい図案や神や仙人の物語である。ただし、ここの人々はトラの年画は描いたものの、家にトラの年画を飾ることはなかった。それは住人の多くが「楊」という名字を持ち、この発音は中国語で「羊」と同じで、トラはヒツジを食うため、不吉だからである。したがってトラの年画は他人の魔よけのために提供されたものである。

門神「神荼」の年画

門神「郁塁」の年画

1949年以降、同地では年画の改革が行われ、労働者、農民、兵士、トラクターが年画の素材となって門神の替わりになり、「大錬鋼鉄(鉄鋼の大増産を目指す運動)」をテーマにした絵が広間に貼られるようになった。文化大革命の最中には、年画は「四旧(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣)」とされ、版木と下絵の大部分が焼かれてしまった。1979年、年画は新たな生命を得て、庶民の生活に戻った。「農民は年画なしに春節を過ごすことができません」と、楊さんは言う。

中国経済の発展につれ、この地で生まれ育った楊家埠木版年画はしだいに芸術の殿堂へと登っていった。1983年の春節(旧正月)、中国美術館で楊家埠木版年画の展示が行われた。その年、楊家埠年画の巡回展が南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカなどの9カ国で行われた。1990年代には、多くの楊家埠の年画職人がブラジル、日本などの国で年画制作を実演し、大好評を得た。2006年5月20日、国務院の認可を経て、同年画は第一回国家レベルの無形文化財に登録された。

現在、都市化の進展につれて、農村の様子がうって変わったため、生っ粋の農民さえも年画を貼ることは少なくなった。木版年画は博物館に入り、いろいろな記念品と共に観光市場に置かれる。絶えず値上りしている年画は、その名を慕ってやってくるコレクターや芸術家の収蔵品、国内外からの観光客の記念品となっている。現在、わずか310戸、人口1150人の楊家埠村では、年間2000万枚余りの木版年画が制作され、中国各地と世界百以上の国と地域に販売されている。山東省濰坊市周辺の500キロ近い民俗観光ルート上でも、楊家埠村は重要な観光地となっている。ここでは、明・清代のすぐれた年画の作品、道具や版木、年画の制作プロセスを実際に見学することができる。

年画制作に奉げる一生

百年の歴史をもつ老舗「同順徳」

楊洛書さんは楊家埠で百年の歴史を持つ書画専門店「同順徳」の19代目で、14歳から父親について年画の制作を学んだ。父の楊俊三が店の当主であった1920年代、店は最盛期を迎え、モスクワにも支店を出したほどであった。理解力に優れ向学心に富んでいた楊洛書さんは、18歳の時には年画制作に必要な技をすべてマスターしており、特に木版彫刻を得意とした。その後、70年間絶えず制作に励み、彼の代表作は『楊家埠木版年画全集』に収録され、また『水滸伝』『西遊記』『紅楼夢』『三国志演義』といった四大名著にまつわる年画も制作した。そのうち『水滸伝』では、かつては武松、魯智深、李逵など数人の人物キャラクターしかなく、楊洛書さんはすでに70歳を超えていたのにもかかわらず、わざわざ『水滸伝』の舞台となった梁山に足を運んで現地視察を行って、素材を集めた。さらにトラックいっぱいの版木を仕入れ、何度もデザインを調整し、1年余りの努力によって、ようやく「梁山百八将」の人物年画を仕上げた。一人の豪傑を一枚の絵に描き、一枚の絵には一枚の輪郭線版と4枚の重ね刷り版という5枚の版木が必要なため、あわせて540枚の版木を作った。また、彼による『西遊記』の年画も440版が作られ、彫られた人物は3~4000にのぼり、年画の珍品とされている。

楊洛書さんはずっと質素な暮らしをしているが、明・清代以降の年画用の貴重な版木を1200セット大切に収蔵している。その中には世にたった一つしか伝わっていない貴重なものが千枚以上もある。文化大革命中は危険を冒して、150枚以上の貴重な版木を布に包んで、ブタ小屋の地下に隠した。1993年、大切に収蔵していた50枚余りの明・清代の版木を無償で国家博物館に寄贈した。楊さんはかつて楊家埠民間芸術大観園に勤めており、40万人以上の国内外の見学者のために版木の彫刻技法を披露しただけでなく、招きに応じて文化交流のために訪日したこともある。また、中国木版年画国際シンポジウムの議長団メンバーに選ばれ、論文を発表したこともある。

楊洛書さんの年画工房は常に20人程度の専門技術者チームを擁していて、一年で平均150万枚以上の画仙紙の年画が刷られ、国内外に売られている。彼の最大の願いはこの世にいるうちに、楊家埠で伝承が途絶えていたすべての版木を復活させることだ。しかし、高齢なので、目も手も思うようにならず、版木の彫刻をやめざるを得なかった。長年の間に25人の弟子を育てたが、木版年画のすべての技法を使いこなせる伝承者は一人もいない。このことを楊さんは焦慮している。

農民の生活を描く「農家楽」

静かな安丘市青雲山民俗遊楽園の年画館に、張殿英さん(76)を訪ねた。初対面だが、初めてという感じはしなかった。というのも20年前に、民間年画の記事を書くために張さんの著書を参考にしたことがあるからだ。彼の上品さや親切さに敬愛の念を覚えた。

「農家楽」絵巻の一部。春節前に市で年画を買い求める場面

「農家楽」絵巻の一部。楊家埠村の人々は年画制作に大忙し

張さんは1936年に安丘のある小さな村に生まれた。幼い頃、祖父は一家の生計を助けるため、冬になると木版年画の商売をしていた。張さんは幼い頃から年画を模写していて、小学校の頃には県の美術展覧会で彼の年画作品が受賞したこともある。1958年、彼は山東師範学院を卒業し、中学校の美術教師となり、生徒の年画創作活動を指導した。彼は年画制作の職人からその技を教えてもらい、下絵の作成、版木の彫刻、印刷など木版年画制作に必要なすべての技法を身につけた。

1969年、張さんは山東省教育庁の教材編纂チームに入り、『山東省小中学校美術教材』を編纂し、濰県年画を教材に組み入れた。1980年に濰県年画研究所に入り、「楊家埠年画」をテーマに、国家レベルの権威のある刊行物や『中国民間美術全集』に20以上の文章を発表、『楊家埠木版年画』などの年画集を出版した。それによって「楊家埠年画」がますます人々に知られるようになった。

1998年、張さんはふるさとの青雲山民俗遊楽園に戻り、年画館を設立した。さらに源流から「濰県年画」(楊家埠より広い範囲)の技法と概念の収集、整理および復活に取り組んだ。長年にわたって伝承が途絶えていたいくつかの技法の印刷実験に成功し、系統的に古い年画の印刷・制作技術を復活させた。また、14巻の『山東濰県年画』を整理・印刷し、「年画道具百宝箱」を設計・製作した。さらに、木版年画「たこの都の春」「楊家埠民芸図誌」「農家楽」の創作を完成した。

張さんは助手に長い年画の絵巻物「農家楽」を広げさせ、見せてくれた。張さんの一生の芸術的蓄積が凝縮されたこの32メートルの巻物は、彼が原画を描いて、息子の張運祥さんに531枚の版木を彫刻してもらい、水性顔料で一枚の長い紙に手作業で印刷して仕上げたものだ。千にものぼる生き生きとした昔の人々が表現され、流暢な輪郭線と美しい彫刻が人を驚嘆させる。「双喜臨門(二重の慶事が訪れる)」から「閙新春(賑やかな新春)」まで、その年画から、昔の山東農民の四季の労作、遊楽、祝祭行事などがうかがえる。春には、結婚と出産、畑起こしと種まき、清明節のピクニック、墓参り、たこ揚げなどの光景が描かれている。夏には、桑摘み、蚕飼い、糸繰り、雨ごい、龍船レースなどの場面が描かれている。秋には、乞巧(七夕)節、中秋節の月見、重陽節の山登り、菊鑑賞、詩作、秋の収穫、脱殻、倉庫入れなどが描かれている。冬には、精米、製粉、家畜の飼育、芝居の鑑賞、市の見物、10月の年画制作などの内容が描かれている。2006年9月、「農家楽」は北京の中華世紀壇世界芸術館で展示され、のちに中国国家博物館に収蔵された。

張さんは高齢だがなおかくしゃくとしており、常にパソコンの前で、資料の検索や整理を行ったり、年画の見本を整理したり、年画関係のウェブサイトを管理したり、ネット上で友人と年画の知識や作品について交流したりしている。また、木版年画の保護、伝承、発展をめぐる提案にも精力的に関わっている。

 

人民中国インターネット版 2013年1月28日

 

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