古滇国の社会を活写 青銅器に残る人物像
丘桓興=文 劉世昭=写真
滇は中国南西部国境に位置する雲南省の別称だ。約2000年前、滇池地域に建国した滇国は400年ほど存続した。晋寧石寨山にある滇国古墳群から出土した各種の青銅器は古代滇人の暮らしぶりをほうふつとさせてくれる。田植え、田祭り、蔵入れ、牛の放牧、紡織、祭祀、戦争や祝日行事などの様子が、生き生きと描かれ、生活の息吹と民族的情緒に満ち溢れている。雲南省博物館の専門家、范舟氏に説明していただきながら、古滇国の素晴らしい青銅器を鑑賞し、その文化的な深みをうかがい知ることができた。
■史記の記述を裏付け
遠くから見るとクジラの形に見える石寨山
石寨山は雲南省の省都・昆明市の南側の郊外に位置する晋寧県にあり、南北500㍍、東西200㍍、高さ33㍍で、クジラのような形をしている。范舟氏によれば、石寨山はかつて滇池に浮かぶ小島だったが、後に水位が下がり、現在の滇池から西へ1㌔離れたところの小山として残ったそうだ。ここも長江流域に属し、滇池の水は蟷螂川、普渡河を経て、北に向かって長江上流の金沙江に流れ込んでいる。
金製の「滇王之印」(石寨山6号墓から出土)(写真・魯忠民) |
古代の滇池一帯には、現在のイ(彝)族の祖先が昆明に集落を作り、暮らしていた。その後、ここに滇国が樹立された。司馬遷の『史記・西南夷列伝』によると、戦国時代、楚の威王は荘蹻に兵を率いて、長江をさかのぼらせ、巴、蜀、黔などの地を攻め、最後に滇池地域に侵攻させた。まもなく、秦国の大軍が南下し、退路を絶たれた。荘蹻はやむなく衣装と習俗を変え、滇王と自称するようになった。滇国は10代の王が交代し、約400年間存続した。前漢初年、漢の武帝が出兵して滇を攻めると、滇王は投降し、臣下として参内した。そこで、武帝は滇王に引き続き滇国の統治を許し、金印を授けた。その後、漢の朝廷は雲南に益州郡を設置し、滇王の権力は郡守(郡の長官)に取って変わられた。こうして、一時輝いた滇国と滇文化はしだいに漢王朝と中華文化に溶け込んだ。
しかし、今から60年前、古代滇国の歴史は明確ではなかった。そこで、1955年から今まで、雲南省博物館をはじめ多数の考古学者らが相前後して、石寨山を対象に5回の発掘を行った。戦国晩期から前漢末期までの89基の古墳群から、青銅器や金器、銀器、鉄器、玉器など計4000点余が出土した。とくに、1956年に6号墓から出土した篆書で「滇王之印」と刻まれた金印は国内外の考古学界を震撼させた。これは『史記』に記載されている前漢元封2年(紀元前109年)に武帝が「滇王に王の印を賜った(賜滇王王印)」という史実を裏付けた。
また、ここ数10年の発掘から晋寧を中心に、滇池周辺に広がる現在の昆明、江川、澄江、呈貢、石林など14の県・市が約2000年前には滇国の属地だったことが明らかになった。現在、石寨山遺跡は国務院によって全国重点文物保護施設に指定されている。石寨山を囲む鉄条網と干欄式建物(高床式の住居)の遺跡の門は周辺に並ぶ花卉栽培のビニールハウス群の中で、ひときわ目立っている。
蓋に戦場の場面が装飾として付いている青銅製の貯貝器(石寨山4号墓から出土) |
蓋についた戦場の群像を拡大すると… |
滇国の国都が未だに発見されていないため、一部の学者は荘蹻が滇に侵攻したこと自体に、異議を唱えている。しかし、石寨山の東5㌔にある晋城古鎮には、荘蹻の塑像が高くそびえ立っており、学界と民衆は司馬遷の記載を認めていることを物語っている。数年前、雲南省博物館は米国ミシガン大学と協力して、3年にわたる考古学的な調査を行った結果、晋城古鎮は約2000年前の滇国の国都であり、後の益州、寧州郡の役所の所在地でもあったという結論を出した。1954年まで、晋城古鎮には周囲4100㍍、高さ4㍍の古い城壁の残骸があったが、後に都市建設のために全部取り壊されてしまった。