古滇国の社会を活写 青銅器に残る人物像
■民族融合と文化の創新
では、これほど精美な滇国の青銅文化を創造したのはどんな民族なのだろうか?現在学界では、氐羌(ていきょう)人、僰(ぼく)人、百濮人、百越人など諸説がある。
范氏は、滇国の主要民族は古代の南方百越人の支族だとみている。展示ホールに陳列してある文物をたびたび指しながら、百越人と滇国との関係を説明してくれた。古代の滇人は稲作をし、麻を植え布を織り、高床家屋に住み、髪を頭上に束ね、はだしだった。また、銅太鼓を使用、崇拝し、弩、銅鉞などの武器を使い、さらに田植えの際に田畑を祭り、牛を殺して祭祀を行うなどの信仰や習俗を踏襲してきたことなどによって、いずれも古代の滇人は百越人の支族であることを示しているのだそうだ。
しかしながら、民族の移動と他民族との経済、文化交流によって、滇国の百越人は外来民族としだいに融合してきたのである。范氏によると、百越人は主に北方の草原民族と交流し融合してきた。古代の昆明国には草原が広がったことは、今でも「軍馬場」という地名が残っていることからも想像できる。さらに北方へ行けば、カンゼ(甘孜)、アバ(阿壩)なども高原や草原が広がっていた。騎馬民族は南の滇池地区まで入り、草原文化もしだいに滇国に溶け込んできた。そこで、石寨山から出土した文物の中で、矛、鉞などの武器には虎、牛、シカなどの動物図案が見られた。騎馬民族が手で持ちやすく首に掛けることにも便利な「環首鉄刀」や、馬上で砥石として使われる長い玉のペンダントなどが滇国に伝わった。騎士は肩や首を防護する革のよろいを使うようになった。地元で育った「滇池駒」という良種の馬は体は大きくないが忍耐力が強く、山路を行くのに適していた。髪を頭上に束ねる百越人以外に、滇国には長い辮髪を垂らした昆明国人もいた。
このように、百越人が草原民族との交流があったからこそ、互いに吸収し合い「ぶつかり合い」のなかで、新しい滇文化が誕生し、さらに滇国の青銅文化が生まれた。
同じように、長江流域に暮らしていた各地の先住民族が長江文明を育んできた。18回にわたってお読みいただいたこの連載で紹介した7000年前の河姆渡稲作文化、5000年前の良渚玉文化、3000年前の三星堆青銅器、2000年前の馬王堆漢墓や編鐘などが含まれる。また、黄河流域の先住民は黄河文明を、燕山の南北にまたがる長城地帯の先住民は北方文明をそれぞれ創った。各地の各民族が創造したさまざまな地域文化が相互に交流、融合を繰り返し、最後に燦然と輝く中華文明を形成したのだ。
人民中国インターネット版 2011年12月