井戸を掘った人たち
島影均 1946年北海道旭川市生まれ。1971年、東京外国語大学卒業後、北海道新聞社に入社。1989年から3年半、北京駐在記者。2010年退社後、『人民中国』の日本人専門家として北京で勤務。 |
私は北京駐在記者としてその年から1992年3月まで滞在しましたが、後半の日本大使は橋本恕さんで、1972年の日中国交正常化交渉に最前線の外交官の一人として携わった外務省アジア局中国課長でした。当時の田中角栄首相から信頼され、田中訪中を実現させ、難航した国交正常化交渉をまとめた黒子として活躍したことは日中現代史でよく知られています。
その時、橋本さんのカウンターパートだったのが中国外交部アジア司日本処長だった陳抗さんでした。田中訪中の2カ月前、周恩来首相の密命を帯びて、農業関係の中国代表団副団長として東京を訪れ、橋本課長と交渉の細部を詰めたことが知られています。
今年は日中国交正常化40周年です。正常化交渉の井戸を掘った人たちの中で、特筆すべきお2人と、好運にも20数年前、同時に北京でお会いでき、難交渉のお話しをうかがったことを思い出しています。そのころ、陳抗さんは大病を患い、入退院を繰り返し、体調が良い時に中日友好協会副会長として会合に出席する程度でしたし、橋本さんは最大の外交課題だった天皇訪中の根回しなどで多忙で、お2人が同席する機会はごくまれでしたが、友情は深く、濃く、短い言葉を交わすだけで、十分だったように見受けられました。
日中交渉が暗礁に乗り上げたのは、田中首相の「ご迷惑」発言でした。日本側の通訳が「麻煩」と通訳し、周恩来首相が激怒したのは有名な話ですが、陳抗さんは「周総理は交渉を壊すつもりは毛頭ありませんでしたよ。しかし、それぞれ国内事情がありましたからね。軌道修正は橋本さんと二人で決めました」と話されたことが記憶に残っています。
陳抗さんは「名前の抗は抗日戦争の抗ですよ。しかも、旧満州の建国大学で日本語を勉強したのです」と、日本との複雑な個人史を話してくれたこともありました。ライフワークは「北のシルクロード」でした。念願かなって、大阪についで日本で2番目の総領事館が札幌に開設され、初代の総領事に任じられました。1980年から2年間の在任期間に、道内をくまなく回り、アイヌ民族に伝わった中国文化の痕跡を探し歩きました。その研究成果を元に北海道新聞は日曜版で連載し、その後『蝦夷錦の来た道』(絶版)として出版しました。
1992年初夏、日中国交正常化20周年の祝賀行事を見ずに、陳抗さんは亡くなりました。68歳でした。告別式に私も参列しましたが、遺体に死に化粧を施す「おくり人」は「周総理の時と同じ人です」と、ご家族が話していたのが印象的でした。橋本さんも参列されておられ「寂しいよ」と、悄然としておられました。
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北海道で講演する陳抗さん(北海道新聞社提供) | 1972年9月29日、北京で行われた日中共同声明調印式。井戸を掘った人たちの努力が報われた(新華社) |
人民中国インターネット版 2011年3月