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角を削って丸くしてくれる

 

齋藤良介=文

住んでいる国を基準に、育った国を比較対象としてみることができる。育った国の良さも悪さも、正常なところも異常なところも、はっきりと輪郭を帯びて浮かびあがってくる。

そういう認識の広がりを成長といっていいなら、海外に身を置き、生活を続けることにはとても大きな意味がある。

1977年5月神奈川県生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。日本語情報誌『City bros』(上海市・北京市で発行)で編集を務める。主にビジネス、経済関連記事を担当。2006年から中国に滞在し、現在は主に上海に在住。 (写真・馮進)

なかでも、当たり前だと思っていたことが「そうではなかった」と感じられる瞬間というのは、痛快でさえある。認識ギャップが大きければ大きいほど、自分の容積が一気に増したように思えるからだ。正確無比のダイヤで運行する鉄道がどれほど便利であり、それが世界の中ではどれほど異常なのかを、きっと日本で理解することはできなかっただろう。「サービス大国」などといわれながら、銀行サービスばかりはお粗末なこと(ちなみに中国の銀行は土日、祝日でも営業しているし、時間外手数料は存在しない)も、日本では気づくことができなかったはずだ。

エスノセントリズム(自民族中心主義)とまではいわないが、自分の国を相対化して捉えることのできない人は存外、多い。日本人にも、中国人にも、欧米人にもだ。かつての私もそうだった。それ自体は別段、不自然ではないし、恐らく良い悪いで判断できることでもないのだろう。ある共同体に属している人間は、必然的にそれに沿うよう形成されていくものだからだ。だが、たとえそうだとしても、「人間の差は経験の差」(縄文アソシエイツ株式会社・古田英明代表取締役)なのだとすれば、一つの視点、一つの常識、一つの規範に囚われすぎるのは、いかにももったいなく思える。

私が中国に感謝せずにいられないのは、まさにこの点だ。中国が目の前で日本とは異なる視点、常識、規範を提示してくれるからこそ、私は絶えず自分のバランス感覚を整えることができる。ある一方に偏向しないでいられるというのは、それこそ、もしかしたら自分が思っている以上に幸せなことなのかもしれない。

もちろん、こういった自己修正――というほど仰々しいものではないので、「自己調整」といったほうが正しいか――は、中国にいなければできないわけではない。私にその機会を与えてくれたのが、たまたま中国だったというだけの話だ。竹内まりやの歌にいう『縁(えにし)の糸』が、きっと中国につながっていたのだろう。

私はそれを良縁だったと思っている。広くて大きいこの国は、地域的にも、経済的にも奥行きが深いからだ。水平にみれば56の民族を抱え、垂直にみれば「19世紀の人間と20世紀の人間と21世紀の人間が一緒に暮らしている」といわれるほどの隔たりがある。これほどの多層構造を持つ国は、世界にそうそうあるものではない。それだけ、私自身が感化されるところも大きいのだ。

日本で生まれ育ったがゆえの「先入観」や「固定観念」「思い込み」、あるいは「偏見」といった角を削って丸くしてくれる場所。私にとっての中国は、そういうところでありつづけている。

 

人民中国インターネット版 2012年5月

 

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