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積極的な交流は中国語上達のチカラ!

 

北京への留学を決めたのは大学1年生の冬休みでした。大学に入って中国語を第1外国語に選択したのはいいものの、「反日」デモや釣魚島問題のために親や親戚に反対され、結局交換留学の選考がある秋まで留学を決意できずにいました。しかし、クラスメートの向上心や中国語の先生方の熱心さに感化を受け、もっと中国語を上達させたい、もっと中国のことを知りたいと思うようになりました。最初、私は交換留学生として違う都市への留学を希望していましたが、準備期間の不足もあり、交換留学の選考に漏れました。金銭的な面で交換留学以外の選択肢を考えていなかった私は留学を諦めかけていました。そんな時に知ったのが北京への半年留学プログラムでした。北京留学の費用が奨学金で賄えることを知り、どうしても中国に行きたかった私はこのプログラムに応募することを即決しました。

出発前、両親は私が北京に行くことを最後まで心配していました。「反日」デモが収まったとはいえ、今度いつ北京の治安が乱れるか分からないことと、私は昔から体調を崩しやすかったため、PM2.5の問題も非常に心配していました。しかし、留学自体を止めようとはせず、温かく見守ってくれたことを今でもとても感謝しています。  留学に来てからは毎日が新鮮で、最初の1カ月は怒濤のごとく過ぎていきました。北京市内の観光地をくまなく回り、上海や大連にも旅行に行きました。1カ月が過ぎて、学校にも北京の生活にも慣れてきた頃、教室で他の留学生たちと一緒に学んでいるだけでは言語は上達しない、もっと中国人と話してみたいと思うようになりました。幸い、私が通っていた北京第2外国語学院には北京有数の日本語学科があり、日本人学生会と連携して定期的に交流会を開いていたので多くの中国人の学生と出会えました。日本語学科の学生たちは皆熱心で日本語にも日本文化にも非常に関心が高く、すぐに中国人の友人が増えました。

その後はお互いに宿題を助けあったり、北京市内のメイド喫茶に一緒に行ったり、食堂や近くの日本料理屋にご飯を食べに行ったり、また日本語と中国語を織り交ぜながらお互いの文化を勉強し合いました。最初はほとんど話せなかった中国語も学校の勉強と中国人の学生たちとの交流で少しずつ話せるようになっていきました。交流を通じて、普通に生活しているだけでは知り得なかった中国語や若者の間で流行している言い回し、方言の違い、中国人の独特の習慣など多くのことを学びました。また、私はいつも食堂でおしゃべりしたり、宿題したりしていたので食堂で働いている人たちとも仲良くなりました。私たちが宿題をしていると答え合わせをしてくれたり、文章が間違っていたら手直ししてくれたり、彼らも私の大切な先生です。北京で出会ったたくさんの中国人は私の大切な宝物です。

私の北京滞在は、わずか4カ月でした。時間を無駄にしないようにやりたいことはやってきたつもりでしたが、やはり4カ月はあっという間でした。私は日本に帰ってからも中国語の勉強をしっかり続けていきたいと思っています。また中国で私に親切にしてくれた人たちのように、私も日本に来てくれた外国人に日本が良い国だと思ってもらえるように接していくことが今の私の目標です。

 

南京で開催されたハロウィーンパーティーに出席する前の様子(左が筆者)

 

市川美和 (いちかわ みわ) 1993年生まれ、奈良県出身。関西学院大学国際学部2年生。

北京中期留学プログラムに参加し、2013年9月から2014年1月まで北京第2外国語学院に留学。 

 

人民中国インターネット版 2014年4月

 

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