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頤和園を巡り西太后を思う

 

文・写真=島影均

西太后(1835 ~1908)は中国では慈じ禧きと呼ばれるのが普通です。周辺の若手の中国人女性に印象を聞くと「強い女性リーダー」「すごく威厳のある女性」「椅子に座って凛りんとした表情」「教科書では横暴、陰険、悪らつな人物ですが、魅力的」。「今日私の機嫌を損ねる者は、一生楽しく生きさせないわよ」というドラマの西太后のせりふが教室ではやったこともあるそうです。日本でも悪女の代表として有名ですが、中国でも歴史的人気キャラの一人です。彼女が山東省の料理が好きだったという言い伝えがありますが、北京の山東料理の店には申し合わせたように彼女の「凛とした」写真や衣装のコピーが展示されています。

昆明湖に「浮かぶ」石の舟・清晏舫

今年は中国で甲午戦争という日清戦争開戦から120年です。西太后はその当時の清朝の実権を握り、軍事予算を頤和園の修復に回し、それが対日戦争敗北、清朝滅亡につながったという見方が定着しています。そうした歴史的評価を抜きにして、頤和園をそぞろ歩くと、立派な公園を残してくれたことを評価したい気持ちになります。この公園はもとは西太后が尊敬してやまなかった乾隆帝(1711~1799)が全盛期に離宮の一部として造園しましたが、1860年に英仏連合軍に破壊され廃墟になっていたのを1888年に彼女が再建し、頤和園と名付けました。この時の再建費用は海軍の年間経費の15年分という巨額だったと言われますから清朝政府の軍事政策に支障を来たしたのは当然でしょう。円明園の廃墟を見るたびに英仏連合軍の破壊のすさまじさを実感しますが、同じ時に同じように破壊された頤和園を国家財政や軍備を度外視して再建した彼女の執念もすさまじいと思います。

そこまでして再建した頤和園でしたが、12年後の1900年に8カ国連合軍に再び破壊されました。その2年後、もう一度再建したのが現在残っているのです。 

26年前に北海道新聞特派員として北京に赴任してすぐ、友人に連れられて初めて頤和園を訪れました。当時はまだ訪れる人が少なく、名物の長廊も静かなたたずまいで、ゆっくり装飾を鑑賞し、清朝末の雰囲気を味わうことができました。

最近、テレビドラマで宮廷ものがブームになっているようですし、頤和園でも西太后が建てた劇場・徳和園で北京京劇院の学生たちが復元した清朝時代の作品が上演されたり、円明園で皇帝、皇后、後宮の女性の衣装をまとって、「花王」と称されている宮廷のボタンの鑑賞風景を再現するなど、行楽客の目を楽しませています。

5月下旬、久しぶりに青空がのぞいた休日に頤和園を散策しました。長廊を歩き、西太后が修復した石の舟・清せいあんほう晏舫や十七孔橋を見て、万寿山の中腹にでんと構える仏香閣に登り、千手観音菩薩像に手を合わせました。

長廊を歩き宮廷風景を楽しむ行楽客

 

人民中国インターネット版 2014年7月

 

 

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