中国語に耳を澄ます
流森 健吉
2016年5月、記念すべき初めての中国渡航。私は重慶に留学中の友人を頼り、1人で日本を発った。
私と中国を結び付けてくれたのは、大学で中国語を教えてくれた先生だ。北京出身の先生が話す普通語は一つひとつの音がとても美しく、流れるような抑揚のリズムに心を奪われた。「せっかくだから検定受けてみたらいいわよ」と講義の最終日に言われたが、経営学を専攻する私はもう中国語の講義を受講できなかった。それでも諦めきれず独学で勉強を続け、ついに3級を取った。先生に合格を報告したとき「まさか、ほんとうに」という驚きの混じった笑顔を見て私は嬉しくなり、中国というものにはまり込んでいった。
目の前に迫ってくる中国大陸を飛行機の小さな窓から眺めながら、私はまだ会話に難があることに不安を感じていた。乗り換えの虹橋空港で飛び交う中国語にたじろいでいると、突然、中国人のおばあさんに話しかけられた。速くてクセの強い中国語に私はまともに反応できず、かろうじて何か質問されているということだけ理解した。私は「我是日本人、听不懂(私は日本人です、分かりません)」と答えるのが精いっぱいで、申し訳なさそうな表情を浮かべると、おばあさんは納得したように他をあたり始めた。このとき私は自分の中国語が相手に通じたという喜びを感じた一方で、ほとんど聞き取れなかったという悔しさをも感じた。なんとか無事に重慶江北空港に降り立った私は、友人の住む寮までタクシーで移動した。運転手のお兄さんは、私が日本人だと分かると「中国と日本は仲が良くないと言われているが俺は気にしないよ」と言い、最後に固い握手を交わして別れた。翌日の早朝、私と友人は中心街から離れた地区へ向かうため、バスの乗車券を買う列に並んでいた。窓口で乗車券を買うのは友人も初めてのことで、行先や時間を伝えるのに不自由していた。すると横からおじさんに割り込まれ、窓口を占領されてしまった。私は「やられた」と思った。「中国人は列に並ばない」、「中国では普通のことなのだ」、と自分を納得させ、私たちは後ずさりしようとした。すると、おじさんは振り返り、私たちに乗車券の買い方を丁寧に教えた後、窓口と私たちの仲介役になってくれた。そして、乗車券が発券されたのを横で見届けるとそのまま去って行った。私は困っている外国人を善意で助けようとしたおじさんを、一瞬でも疑ってしまったことを恥ずかしく思った。
私は日本を発つ前、戦争において日本軍が重慶に繰り返し爆撃を行い、多くの犠牲者が出たことを知っていた。重慶では毎年6月5日に事件の犠牲を悼み、市民が歴史を忘れないよう防空警報を鳴らしている。今年も、事件の生存者や市民らが黙祷し、献花した。重慶に降り立つ直前まで私は、重慶の人たちは快く日本人を受け入れてくれるのだろうかというもう一つの不安を抱えていたのだ。しかし、見ず知らずの日本人に対して重慶人はみな優しく接してくれた。私はただ、見たことも知りもしない、自分の中で誇張された日本に対する抵抗感情を恐れていたにすぎなかった。
事実を知らないということは恐い。間違った固定観念が、中国人の人情の厚さをかき消してしまう。また、ある日本人は、中国人が話す様子を見て騒がしいと言うが、実際に中国語を話してみるとはっきり発音しないと伝わらないことが分かる。マナーがなっていないわけではない、単なる言葉の違いである。街のどこかで中国語が聞こえてくるとき、私は耳を澄ます。中国人は騒がしいという先入観を持つと、その美しい音の抑揚に気づくことはできない。彼らが話す言葉に耳を澄まし、困っているときは「你好」と声をかけて助けると決めている。それは私が重慶で「請問」と助けを求めたときに、優しく接してくれた人たちへの感謝の気持ち。そんな私と中国の優しい関係が、世界中に広がりますように。
人民中国インターネット版2016年9月