巨大市場はどこにある? 新時代の企業家精神を発揮する時
中国のシリコンバレーといわれ始めてすでに15年以上になる北京市中関村のオフィスビルから見下ろすと、環状道路・四環路に車があふれている。開発当初、このビルの周辺はまだハクサイ畑で、開通したばかりの四環路は車よりも馬車の方が多かった。
最近、このビルでお会いした日本人の中国専門家は彼が外国語専門大学で中国語を学び始めた1960年代後半から70年代初めにかけての思い出を語ってくれた。「当時の中国は文革の最中でした。中国の先行きは真っ暗なのに何で中国語を専攻するのだ、と言われたものでしたよ。そんな時代でしたが、資生堂、ワコールなどは中国語専攻の学生を指定して求人してきました。中国の混乱がいつまでも続くわけはない。必ず世界最大の市場になると確信していたからこそ、先行投資の発想で中国語専攻の学生を採用したかったのでしょうね」
今、中国の大手デパートで資生堂、ワコールの商品を置いていないところはない。さて、これから15年後、数十年後の中国市場はどこにあるだろう?日本に将来の中国市場を率先して開拓しようという意欲的な企業はあるのだろうか?
沿海市場開拓に大きな貢献
改革開放政策が打ち出されてから30年の間に、中国経済は南から北へ向かって次第に発展してきたが、その推進力として日本企業の役割は欠かせなかった。
80年代初め、広東省深圳の人口はやっと30万を超えたばかりだった。現在は1000万人を超える大都会に変貌している。当時、大学卒業後に就職した新聞社の通訳として、知人の日本人記者と共に深圳を取材した。ある日本の家電メーカーの若い日本人社員が郊外の黄色の稲穂が風にそよぐ水田を指さして、「もう少ししたらここにカラーテレビ工場ができますのや」と大阪弁で語っていたことを今でも鮮明に記憶している。
当時、テレビといえば、多くの中国人は村役場や金持ちの家で何度か見たことがある白黒テレビであり、カラーテレビは想像もできず、まして買うことなど論外だった。平均月収が20元(当時1元は約130円)前後だった当時、テレビは1台で1000元を上回り、1世帯が数年節約して、少しずつ積み立てて、やっと買える高額商品だった。中国の市場規模は限られ、発展の余地は小さいと思われていた時代に、眼前に広がる水田を見て、日本企業はそうした国情、環境の下にあっても、カラーテレビ工場建設に投資しようと考えた。
さらに重要なのは、80年代初期には、ほとんど全ての大人が文革を経験し、政治運動はまたやって来ると信じていたことだ。企業経営はリスクを伴うものだとしても、中国のカントリー・リスクは世界のどこよりも大きかった。その時代からさかのぼる20~30年の歴史を振り返ると、中国は政治運動の連続といえた。政治運動が起きると、経済の発展は必然的に停滞した。80年代以降に、政治運動はもう起きないとは誰も言い切れなかった。
しかし、80年代末期になると、大都市のほとんどの家庭がテレビを持った。12㌅、少し大きくて15、17㌅でしかも白黒が主だったが、中国の家電発展の道には停滞はなかった。90年代以降、筆者は上海、安徽省合肥などで多くのテレビ工場を取材した。生産ラインは日本企業が提供し、技術指導も日本人エンジニアだった。メディアは過剰生産を指摘し、市場では激しい販売競争が展開されたが、見る見るうちに、日本製の家電製品が中国でますます普及し、テレビだけでなく、洗濯機、冷蔵庫などの家電販売は最盛期を迎えた。このすう勢は2010年前後まで続いた。
家電に続いて、日本製のコンピューター、プリンターなどのOA機器が順調に売り上げを伸ばし、日本製携帯電話も持てはやされた。かつての日本の企業家精神が中国市場の開拓に発揮され、中国の経済発展を支援し、日本企業自身も中国で巨大な利益を手にした。
言い換えれば、中国の改革開放最初の30年は、日本企業の中国に対する技術移転、資本提供が中国の経済的な成功の重要な理由だった。日本経済は1993年以降、失速状態に陥ったが、日本企業の中国での収益に影響を与えず、これが日本経済の持続的な下降に歯止めを掛け、日本経済が挫折を免れる重要な要素だった。
長江沿岸、西部開拓にちゅうちょ
2010年以降│具体的に言うと13年から中国は「一帯一路(シルクロード経済ベルトと21世紀海上シルクロード)」政策を推進し始め、中国経済は「新常態(ニューノーマル)」に入った。東部沿海地区の開発はほぼ完了し、経済開発の重点は長江沿岸、西部地区に移った。それまでの重点は東部沿海地区の発展におかれ、日本、米国等の国々との相互貿易を拡大する大循環方式を通じて、中国は一定程度の工業基盤を整備した。日本、米国等に開放した東部国際市場が次第に飽和状態になり、中国は新たな発展の道の模索が急務になった。
この新たな道は長江沿岸地区、西部地区の発展を促進することであり、さらにチャンスは「一帯一路」の沿線国へ広がってきた。
日本企業は10年以降、上海集中の強化を基本方針としている。北京、上海の日本企業の業界団体―日本商会の状況から言うと、もともと両商会への参加企業の数に差はなかったが、今年、北京商会の参加企業が800社余なのに対して、上海は2200社を超えている。
上海を中心にしたグレーター上海地区で、日系企業は長江に沿って蘇州、無錫、鎮江でかなりの実力を持ち、同時に北に向かって昆山から山東に至るまで布石を打ち、南に向かっては、浙江沿海地区に対する投資もかなり大きな基礎となっている。グレーター上海は日系企業が集まる重要な拠点になっている。
しかし、これはわずかにグレーター上海に限られている。長江を沿い上流に向かい、南京に着くと日本企業の影は非常に少なく、合肥には日本企業の中で比較的重要な建機企業があるだけで、その他はほとんど見掛けない。湖北省武漢ではわずかな日本の自動車工場を見つけられる。さらに上流に行くと、重慶、四川省成都には日本の小売業が展開しており好調だったが、自動車などでは影響力があるとは言いがたい。重慶の電子産業は強力な後発優勢を発揮していたが、日本企業の役割は限られていた。
長江流域の人口は中国全体の半分を占め、グレーター上海は当然重要だが、人口は長江流域の5分の1足らずだ。上海を出れば日本企業の勢いは相当弱い。
さらに西北に目を向けると、西安は「一帯一路」の最も重要なハブだ。西安の上官吉慶市長はかつて筆者に自信たっぷりに「8本の高速鉄道が西安に集まっている。合肥、武漢の6本に比べても多い」と語った。西へ向かう陸路は必ず西安を通過する。中国国内と西域という数十億の人口を擁する2大市場は西安をハブとして結びつき、その戦略的な位置はかつての深圳、上海を大きく上回る。
「対西安投資の中で、日本企業は3位にとどまっている」と上官市長。日本のメディアが「一帯一路」に関してほとんどマイナス面しか報道しない姿勢を見るにつけ、また日本の政治家の「自由と繁栄の弧」政策を通じて中国を包囲し、孤立化させようという発言を聞くにつけ、日本企業が完全に西安を放棄していないのは、まことに見上げたものだと感じられる。
次第に弱くなる企業家精神
経済は政治に巻き込まれるべきなのか否か?日本の大多数のメディアが中国にはカントリー・リスクがあると強調し、日本の政治家が中国との対立を主張する時、企業は中国市場に対していかなる判断を下すのか、それには企業家精神が欠かせない。
中国で文革が再来する可能性は全くあり得ず、改革開放前の政治運動は過去30年余の間に一度も起きておらず、今後発生する可能性はさらに小さい。今日の中国は1970年代初頭の中国に比べて、外部から見て、その不確定要素は明らかに少なくなっているはずだ。
しかし、昨今の日本企業には中国の長江沿岸経済や「一帯一路」政策に対する認識がないわけでもなく、市場評価に関するデータが不足しているわけでもないのに、8割以上の日本国民が中国に対して「好感を持っていない」という「空気」に影響されて、中国経済との距離をますます広げている。
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陳言 コラムニスト、日本産網CEO、日本企業(中国)研究院執行院長。 1960年生まれ、1982年南京大学卒。 中日経済関係についての記事、著書多数。 |
人民中国インターネット版 2016年12月26日