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中国─日本 友好の絆⑨ 鄭州

 

広範な教育・スポーツ交流

鄭州市とさいたま市の少年サッカーチームが試合の後にお互いにサインし合い、記念とした(鄭州外事弁)
日本語を専攻していた鄭州の外事弁副主任である張樹忱氏は、まだ45歳の若さだが、中日友好の元老と言っても良いだろう。「私は1988年からこの分野の仕事を始めました。外交部から栄誉証書をもらってもいいくらいでしょう」と、彼は笑いながら言う。仕事の関係から、彼は何度もグループを率いて日本を訪れており、かつては研修生として日本で1年間勉強したこともある。しかし初めて日本に行った時の印象は今でもはっきり覚えている。「それは1993年のことでした。短い訪問でしたが、日本をさらに深く理解する助けとなりました。日本は交通がとても便利でしたが、中国の高速道路はまだとても少なかった時代です。特に日本人のマナーの良さ、時間に対する正確さ、仕事への真剣な態度など、とても感銘を受けました」

張さんは日本に赴いた多くの研修生の一人であった。双方の高官たちによって、両市の文化、教育、スポーツ、人材・技術育成などの交流・協力が絶えず強化されていた。1985年8月、鄭州市とさいたま市は、中国から三つの専門の研修生を22名派遣する協議を締結した。その後、鄭州市は何度も研修生、留学生、国際交流員をさいたま市に送って研修・学習させ、医学、語学、美容、食品、建設、電子メーター、自動車修理、造園など、100人近くにも及ぶ優秀な人材を鄭州市のために育成した。

鄭州テレビ局の陳玉成副局長はかつて浦和市で取材・撮影をした(写真・陳玉成)
さいたま市はサッカー都市でもあり、日本で最も専門的なサッカー場とサッカーリーグ参加チームを二つ擁している。2002年のワールドカップの際には、一部の試合を当市で開催した。そして鄭州市が所轄する登封市は少林武術の発祥の地であり、「全国武術のふるさと」という美名を持つ。そのため、早くも1982年に、さいたま市の43人からなるスポーツ代表団が鄭州を訪れている。30年余りの間、双方は青少年スポーツ代表団を10回以上にわたって相互に派遣してきた。元浦和市少年サッカー代表団、少年野球代表団、少年女子バスケットボール代表団などが鄭州にやって来て、友好試合を行った。鄭州市の少年サッカーチーム、囲碁チーム、国際将棋チームがさいたま市で行われた試合に参加した。2002年、さいたま市は子ども版のスモールワールドカップを計画し、張樹忱氏は20人あまりのサッカーチームを率いて日本に赴き、試合に参加した。「子どもたちは普通の家庭で寝泊りしました。チーム員はみな小さく、最年少はわずか8歳だったので、一人で生活するのは無理でした。受け入れ家庭の人たちは彼らをお風呂に入れたり、洗濯をしてくれたりしました」。これらを語る張さんはいまだに感動を覚えているようだった。

その他にも、両市の中・高校間の教育交流もとても盛んである。1987~2007年、さいたま市立浦和高校(元浦和市立浦和高校)ではほとんど毎年、高校2年生の400名あまりが中国に修学旅行に行き、鄭州市の中・高生と交流を行った。それは計20回にも達した。鄭州市もかつて7度にわたり生徒代表団を組織し、さいたま市に赴いて交流を行った。これらの交流により、両市の青少年間の相互理解と信頼が深まり、中日友好の後継者養成の大きな力となっている。

 

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