中国─日本 友好の絆⑩ 洛陽
文=張春侠 写真=劉世昭
河南省西部にある洛陽市は中国7大古都の一つ。国内はもとより世界に名を馳せる歴史文化都市で、昔から「九州(中国の異称)のへそ」と呼ばれている。6000年の文明史を誇る洛陽は「神州」の美称を持つ中国の都「神都」とも言われる。有名な「龍門石窟」や、晋書の「洛陽の紙価を高める」などよく使われることわざ、また李白の詩に「洛陽の牡丹(ボタン)は天下一品」と歌われていることから、日本でも多くの人々に知られている。1978年から1980年までの3年間に、洛陽へ観光や旅行に訪れた岡山市民は、国内の大都市からの来訪者をはるかに上回ったそうだ。
このように密接な往来から、洛陽市と岡山市は1981年4月6日、当時、中国人民対外友好協会会長だった廖承志氏の取り持ちで、正式に友好都市となり、洛陽市にとって最初の外国友好都市となった。それから30余年来、両市は政府から民間まで、教育、科学技術、医療、環境保護などさまざまな分野で、広範で効果的な交流と協力を推進してきた。
交流を支えた執念と熱意
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龍門石窟奉先寺の彫像 |
岡山市日中友好協会はこれといった決まった資金がなく、すべての運営費を会員の会費と寄付でまかなっている。こうした状況におかれていても、片岡会長は苦労をいとわず、在任中、毎年、訪中団を率いて洛陽を訪問した。軽い脳卒中にかかった直後も、夫人に支えられて、数十人の訪問団を率いて洛陽を訪れた。
2006年、同協会は洛陽市孟津県小浪底緑化基地のために毎年400万円の「日本政府緑化基金」を獲得し、6年間連続で経済的に援助した。その後、毎年4月、片岡会長は市民を率いて小浪底を訪れ、現地の人たちといっしょに友誼を象徴する苗木を植えた。「小浪底の山道は歩きにくいし、暑くて、条件は非常に悪かったのですが、それでも片岡会長は必ず植樹現場に行っていました」
片岡会長の友好事業に対する貢献に感謝して、2011年、洛陽市は片岡会長に「栄誉市民」の称号を授与した。
退職後、片岡さんはある病院の名誉院長を務め、引き続き両市の友好交流に取り組んだ。洛陽市の看護士2人がその病院で研修することになり、片岡会長は孫娘をかわいがるように、彼女たちを連れて観光旅行に出掛け、おいしいものをご馳走し、二人から「片岡おじいさん」と親しまれた。
洛陽市国際友好交流センター弁公室の于愛紅主任も、仕事の関係で片岡会長と知り合い、彼の精神に深く感動させられた。次第に、彼女と片岡会長は良い友だちになった。2012年5月、片岡会長が病気にかかったことを聞いて、于さんは自費で日本へお見舞いに行った。
岡山には今でも日中友好に取り組んでいる人が大勢いる。洛陽市新安県五頭鎮希望小学校には記念碑が立てられている。その碑には清水友三郎という日本人の物語が刻まれている。
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2010年4月、孟津県小浪底の緑化基地で植樹をする片岡会長夫妻(写真提供・洛陽市外事弁公室) |
2000年、清水さんはがんの手術を終えたばかりで、まだ全快していなかったが、洛陽を訪問し、寄付金を贈った。翌年4月、五頭鎮希望小学校が完成した際にも、病気をおして竣工式に参加した。
清水さんの執念と熱意は現地の人々を感動させた。ほどなく、清水さんは病気で亡くなったが、五頭鎮の村人は希望小学校に彼の記念碑を立て、また一本の「友誼の木」を植えた。
洛陽と岡山の30余年の友好往来の中、絶世の美女にたとえられるボタンの花も中日友好の大切な「使者」となった。
洛陽と岡山は同じ緯度だが、洛陽ボタンの品種は豊かで、岡山ボタンの開花期は洛陽より7日から10日遅い。1980年代、岡山は数回に分けて王城公園に数十株の遅咲きの品種を贈り、王城公園もお返しに洛陽特産のボタンの苗を贈った。
現在、ボタンが満開の季節になると、王城公園などのボタン園では、観光客が遅咲きの日本のボタンを観賞できる。岡山半田山植物園にも、洛陽から贈られたボタンを植えた「洛陽ボタン園」が設けられている。
2012年4月、岡山市の高谷茂南市長が代表団を率いて第30回洛陽ボタンフェスティバルに参加した。帰国後、今度は岡山半田山植物園の洛陽ボタン園で洛陽ボタンフェスティバルも同時に開催した。
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2011年8月、岡山市を訪れ友好都市締結30周年記念式典に参加した洛陽市代表団(写真提供・洛陽市外事弁公室) |