特集 改革開放40年 日本の協力が大きな支えに

2018-12-17 11:28:05

1978年、中国は改革開放という歴史的選択の岐路に立っていた。この重要な歴史的瞬間に、中国は日本から改革の構想と計画を参考にしただけではなく、日本側から技術や資金、マネジメント経験のサポートを得た。そのため、日本は中国の改革開放の重要な参加者であり、強力な後援者でもあった。

鄧小平氏の訪日視察が改革の鍵に

7810月に鄧小平氏は日本を訪問した。これには二つの目的があった。一つは、中日平和友好条約の批准書交換式に出席するため。もう一つは、日本経済を視察し、改革開放の構想の正しさを検証し、中国の改革開放が参考できる経験を見つけるためだ。

訪日期間中、鄧氏は園田直外務大臣や大平正芳自民党幹事長らから日本経済の状況を紹介してもらい、戦後の日本経済の発展に理解を深めた。鄧氏は日本の「経済中心で、門戸を開放し、チャンスをつかみ、難関を克服する」発展の経験を評価した。中国の改革開放後、経済中心の戦略方針が提起されたのは、日本に対する鄧氏の認識と無関係ではない。

特に、鄧氏と会談した大平氏(当時は自民党幹事長)が、中国の経済建設に日本政府の借款を利用することができると提言したことは特筆に値する。その後、東京を訪れた谷牧副総理が円借款に関する協議をしたのはまさにこの会談がきっかけだ。79年に訪中した大平首相は、日本政府からの贈り物として円借款供与を正式に始動した。当時、円借款は一時期、中国のインフラ投資の10%、外国政府による対中融資の60%以上を占め、中国の経済建設に対し重要な推進作用を果たした。

 鄧氏は新日鉄君津製鉄所を見学し、熱延鋼板製造の壮観な場面を目にして感慨深く次のように述べた。「鋼鉄は経済発展の重要な支柱で、当時われわれは(年間生産量)1080万の目標を達成するために苦心を重ねてきた。今後、われわれもこのような先進的な製鉄所を持たなければならない」。これによって、上海の宝山製鉄所設立の基礎が固まった。

鄧氏は松下電器(現パナソニック)を見学中、電気製品の生産状況をしきりに質問した。鄧氏は、現代化に電子工業はなくてはならず、松下電器が率先して中国に投資して工場を設立してほしいと述べた。鄧氏の言葉は春雷のように響き渡り、こうして中国の大地に外国商社の投資を受け入れる春が訪れた。その後、松下電器がカラーテレビ用ブラウン管の生産拠点設立に北京を選んだのは、鄧氏の呼び掛けに応えたからだ。

鄧氏は訪日中、日本の友人のためにいくつもの題字を揮毫した。日産自動車には、「向偉大、勤労、勇敢、智慧的日本人民学習、致敬(偉大で勤勉で勇敢で英知のある日本人民に学ぶとともに敬意を表する)」と揮毫し、新日鉄君津製鉄所には、「中日友好合作的道路越走越寛広,我們共同努力吧!(中日友好協力の道はますます広がる。われわれは共に努力しよう)」と揮毫し、松下電器には、「中日友好,前程似錦(中日友好の前途は錦のごとし(9))」と揮毫した。

1025日、鄧氏は東京で記者会見を開き、日本視察を高く評価し、ユーモアを交えて率直に次のように述べた。「日本は昔から蓬莱と呼ばれ、不老不死の薬があると聞いている。今回の訪問ではそれを求めに来た。不老不死の薬がなかったとしても、私は日本が科学技術を発展させた先進的な経験を持ち帰りたい」

29日午後、74歳の鄧氏は8日間の訪日を終了した。鄧氏は次のように述べている。「私は喜びの気持ちを抱いて東京へ来て、また喜びの気持ちを抱いて北京へ帰る。(中略)日本を見て、現代化とは何かが分かった」

1218日、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会が開催された。会議はこの言葉でまとまった(10)。「中国は改革開放政策を実施する!」

日本人経済顧問が中国に提言

北京に戻った鄧氏は直ちに谷副総理と重大な意思決定を話し合った。中国が改革開放の下で経済発展の計画を制定するのを手伝う経済顧問を世界中から探すことだ。

78年末、再三の考慮や検討を経て、日本の大来佐武郎氏と向坂正男氏、西ドイツのグトウスキー氏の3人が中国国務院経済顧問に選ばれた。大来氏は戦後の日本経済の高度成長の目撃者であり、発展政策の制定者でもあり、長年、経済官僚として活躍した。新中国の歴史において、日本人専門家が中国の経済顧問になったのはこれが初めてだ。

79年1月、大来氏と向坂氏は招きに応じて北京を訪れ、中国の幹部に「戦後の日本経済の発展の経験と中国の発展」などの報告を行った。これは改革開放後に、中国の指導者層が初めて系統立ててヒアリングした国外の経済発展報告だ。これは改革開放の啓蒙授業であり、中国政府の官僚の思想解放に啓発的役割を果たしたともいえる。

同年10月、大来氏と向坂氏は再び招きに応じて訪中し、中国経済を視察し、経済発展の経験を伝え、中国経済の発展にアイデアを出した。両氏は北京や上海、杭州などを重点的に視察し、自動車、機械製造、紡績工場など中国の代表的な産業を見学した。両氏は谷副総理ら経済分野を担当する高級官僚に特別報告を行い、大来氏は、中国経済を急速に発展させたいのならば、計画経済の中で市場経済を実施することが必須だ、と明確に提起した。

中国が後に打ち出した社会主義市場経済の構想も、大来氏の中国混合経済体制論を参考にした。

発展に不可欠な経済交流

中日双方は協力の中で中日関係史上、深遠な意味を持つ歴史的快挙を達成した。それは、中国政府の官僚と政治の第一線から引いた日本の官僚や専門家で構成される中日経済知識交流会の設立を決めたことだ。双方は、年1回の年次総会を行うことを決め、中国の改革開放、経済発展などの重大な課題に対して政策的な深い討論を行った。

81年から始まった会議は、毎年非常に和やかに進み、多くの成果を生んだ。双方は思想を分かち合い、協力を強めただけでなく、友好も深めた。

中日経済知識交流会は中国の改革開放や経済発展のために建設的な貢献を果たした。会議で出された多くの提言は、みな中国の経済改革の具体的な政策となった。円借款、特区建設、経済開発区計画、経済構造の調整、外資導入、インフラ整備、企業改革および技術革新など中国経済の建設に関する重大な課題はどれも交流会で深い討論が行われ、建設的な対策や計画が生まれた。

谷副総理が中日経済知識交流会を思想を解放し勇敢に実践する実験の場としたことで、中国は経済を発展する構想を練り、自国経済が速みやかに世界経済の発展の流れに合流するようになり、国の全面的発展のための時間と空間を勝ち取った。

中国の改革開放は、このように堅実に前進する足取りを踏み出したのだった。(元中日経済交流会秘書長   張雲方=文) 

 

人民中国インターネット版 2018127

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