青年時代を変えた「事件」
日中友好協会専務理事 西堀正司(談)
1972年の日中国交正常化から今年で52年、その中で一つの節目をつくったのが84年の「日本青年3000人訪中」だというのは、紛れもない事実だ。日本の47都道府県から青年団体の全てが結集したケースは他にないからだ。
82年の国交正常化10周年のとき、私は日中友好協会訪中団の一員として北京を訪問し、鄧小平先生とお会いした。その際、鄧小平先生は中日友好を子々孫々と発展させなければならないと述べ、「高校生、中学生だけでも問題は解決しない。まだ生まれていない人をも含める」とおっしゃった。その後、鄧小平先生の指導と改革開放路線の下で3000人交流が行われたと私は理解している。
84年当時、私は日中友好協会の事務局長を務めていた。3000人訪中の準備段階で大変だったのはまずは時間との闘いだ。話が来てから実行するまでの時間が1年もなかった。事務局としては、お土産の手配をしたり大学生交流の歌を作ったりと、やることは山ほどある。余興用に花笠音頭などの集団でできるものを練習したり、中国語で歌を歌ったりなどの練習は、各団体でやってもらった。
また、各機関と綿密な打ち合わせをして、どのように組織するかを決めることも大変だった。問題点はホテルが少ないこと、日中間の定期便が多くないことだった。日本外務省、中国外交部、日本青年団協議会、中華全国青年連合会、中日友好協会などと総力を挙げて対応した。
ようやく9月になり、私は北京から入り、西安から上海に行って帰国するスケジュールだった。北京では、新中国成立35周年のパレードを3000人が天安門脇の見物席で見物した。特に印象深かったのは夜に花火大会が行われ、3000人が天安門広場の見事な花火の夜空の下で、中国青年と時間を忘れてダンスパーティーをしたことだ。
西安では兵馬俑、大雁塔、華清池など名所旧跡を訪問し、興慶宮公園で西安各界青年交歓会に参加した。聯歓会では、兵馬俑の俑が向こうから歩いてきた。それは中国の青年がマスクをかぶり俑に変装したものだった。みなで驚いていたら、その俑の大将が日本語で「西堀さん」といきなり声を掛けてきて、さらに驚いた。国会議員で日中農業農民交流協会の会長をしていた八百板正さんが、80年の初めに日本で初めて中国の青年に技術を教えるために研修生として迎え入れたのだが、2年目に私がその役を担った。俑の大将はそのときの一人だった。
また上海では、中国の青年と卓球で交流した。私の相手は世界チャンピオンになった女性で、わざと負けてくれた。ラケットにサインしてもらい、世界一の彼女が、「西堀さんは私より強い人」と言ってくれた。
振り返って見ると、3000人交流は、参加者の青年時代を瞬間的に変えた「事件」だったと思う。日々の生活から突然非日常的な体験の場へと行き、そこで目で見て耳で聞いて、さらに体験し、食べ、踊ったことが血となり肉となり、体の一部になった。以降、日中交流は高揚期を迎えることになり、日中関係も非常に良い時期に入った。それをきっかけに、友好関係を締結する自治体が急増し、現在は250以上になっている。これも大きな成果の一つと言えるだろう。
40年前の3000人交流に携わった人の多くは、お年寄りになっている。日中友好を真剣に考えようと心から思える若者をどれだけつくれるかが、われわれにとって早急に解決しなければならない問題だろう。 (李一凡=聞き手・構成)