40年前の経験を未来へ

2024-09-13 13:56:00

笹川日中友好基金室長 于展(談) 

1984年の夏、私は北京外国語大学(当時は北京外国語学院)を卒業し、母校で働くことになった。同年秋に3000人の日本青年が訪中し、その期間中に母校でスピーチコンテストが行われた。参加者は日本語を学ぶ中国の大学生と、中国語を学ぶ訪中団のメンバーだった。そのとき、私はコンテストの通訳を務めた。 

中国側の参加者は主に北京の各大学の3、4年生で、一方、日本側の参加者は多様だった。大学で中国語を学ぶ学生もいれば、中国人のペンフレンドと手紙でやり取りしながら中国語を学んでいた主婦や漫画家もいたが、体の不自由な日本人の女の子が特に印象深かった。 

コンテスト自体は規模がそれほど大きくなかったが、双方の審査員のレベルは非常に高かった。北京語言学院(現在は北京語言大学)の日本語教師育成のために設立された「大平学校」(大平正芳元首相が設立に携わった日本語研修センター、後の北京日本学研究センター)のベテラン勢が全員参加し、中には日本人専門家グループ長の佐治圭三先生もいた。国家外専(外国人専門家)局から各大学の日本語学科に派遣された日本人教師もいた。また、中国側の審査員は全て中日友好界の大先輩たちだった。 

現在とは違い、当時の中国人大学生が日本人と触れ合う機会は主に以下の三つだった。一つ目は、大学での日本人教師との交流。二つ目は各大学にいる少数の留学生で、その大半は北京に派遣されて中国語を研修する日本企業の社員であり、当時北京ではよく日本人留学生と中国人大学生が共にプレーする野球の試合が行われていた。三つ目は、北京外国語大学などの外国語学校で夏休みに開催される日本人向けの中国語短期研修班でだ。北京外国語大学は日本語専攻の学生と研修班参加者たちとの交流会などを開催していた。 

私たち日本語専攻の学生ですらこのレベルだったのだから、他の一般人はなおさらだ。そのため、40年前の「日本青年3000人訪中」活動は、より広範囲に積極的な効果を生んだと私は考えている。特に、メディア報道を通じて、より多くの中国の人々が日本の人々が一体どのような人たちなのかを知ることができ、中日民間友好の雰囲気を盛り上げることにつなげた。 

現在中日関係は冷え込んでいるが、40年前の同イベントの成功経験は今でも非常に参考になる。両国の友好団体や交流機関はそれぞれの特徴を生かし、両国の民間交流や青年交流のためにより多くのプラットフォームをつくり上げ、両国間の友好交流の潮流をより力強くしていってほしい。 

近年、私が所属する笹川日中友好基金は、オンラインとオフラインの形で中日交流という大枠の中からいくつかの具体的な分野に焦点を当て、対話と交流促進に向けて多くの取り組みをしてきた。例えば、国際関係研究分野の中日青年学者交流や、中日両国の伝統工芸職人の交流、自衛隊と中国人民解放軍の幹部らによる「日中佐官級交流事業」などが挙げられる。中日友好交流界の一員として、今後も自分の経験を生かし、両国の交流に力を尽くしていきたい。 (王朝陽=聞き手 李家祺=構成) 

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