歌でたどる友好交流
歌手 芹洋子(談)
私は1981年に初めて中国を訪問した。当時中国には日本語講座の番組があり、その番組のテーマ曲に「四季の歌」が使われていたようだ。北京の学生さんなどは愛唱歌として歌ってくださり、その流れで学生さんの中から私を呼ぼうという声が出てきたと聞いている。さらに中国国際放送でどんどんリクエストをしてくださり、招聘の機運が高まってコンサートの実現となった。それは中国との縁の始まりであり、そのおかげで、私は日中国交正常化以降初めて北京で公演を行った日本人歌手となった。
84年初頭、日中協会の白西紳一郎さんを通して3000人訪中の話をいただいた。3000人という数字を最初に聞いたときは本当に驚いた。どのように集まるのだろうと思っていたが、徐々に形になってきた。そして5月頃に私の訪中が決定し、芸術関係担当の文化代表として招かれることとなった。
入念な準備を経て、私は9月に北京に入り、大勢の人が詰め掛けた首都体育館で行われた歓迎大会に参加した。日中それぞれの出し物が代わる代わる繰り広げられ、和気あいあいとした雰囲気の中で進行した。私の出番は最後で、「四季の歌」などを歌わせていただいた。
団員の皆さんは地方にも行ったが、私は北京だけ。歌だけに集中し、歓迎大会だけのために全力投球した訪中だった。しかしそのぶん北京をじっくりと紹介していただけて、中国の歴史の深さ、素晴らしさ、大きさを存分に感じることができた。
84年訪中の思い出は他にもたくさんある。当時中華全国青年連合会の主席を務めていた胡錦濤さんが私の訪中スケジュールなど、いろいろを決めてくださった。胡さんは背が高く堂々としていて、活動的なイメージが強かった。同行した訪中団最年少の3歳の娘のことは、「小さな友好大使」と呼んでくださった。娘のためにわざわざホテルまで中国服を届けてくださったこともあった。そのときはちょうど娘をお風呂に入れていたので大変お待たせしてしまったが、嫌な顔一つせず、ロビーで1時間も待ってくださっていたのには本当に驚いた。
振り返ってみると、3000人交流は、最初小さくたたまれていたものがぱっと広がる、あたかも扇のようなものだったと私は感じた。私はその後も中国との交流を重ね、日本と中国が協力することで、日本だけでも中国だけでもなし得ない、異なる成果を上げることができると強く感じたが、3000人交流はそのきっかけになったと言える。
初めての訪中から43年、19回の訪中では、若い人たちとの交流がひときわ多かった。その経験から知ったのは、「人間的な交流」の大事さだ。コロナで途絶えてしまった訪中コンサート、次回が実現すれば記念すべき20回目となる。そのときに中国の皆さんと再会するのが、心から楽しみだ。 (李一凡=聞き手・構成)