過去と今と、未来へと
小野寺純子
子供の頃に読んだ『三国志』の影響で大学では中国史を専攻していました。「中国が好き」という想いに対し、家族からの風当たりは強く、何より私自身も世間一般でいう「ふつう」の心地よさに、卒業してからは意図的に「中国」から離れようとしていました。
ある年齢に達して考えるようになったのは、「後悔しないように、好きなこと、やりたいことをやろう」ということ。改めて自分は何が好きで、何に興味があるか。ということを考えると……どうしても「中国」の二文字が頭をよぎります。引かれていた後ろ髪をパツンと切ったつもりでいましたが、どこかで「中国」に触れていたい。そんな自分を発見しました。
では何に触れるか。歴史か、詩か、お茶か、音楽か……そう考えたとき、音楽ならそこまで「中国」に深入りすることもないだろう。そして、数ある中国楽器の中でも二胡なら、比較的歴史も新しいため「音楽」だけに集中できるだろう。という、今思えば浅はかな考えで二胡を学び始めました。「中国」にはちょっと触れていたい。でもどっぷりと浸かる覚悟は、まだ出来ていなかったのです。
習えば習うほどに、先生の音色の美しさに魅了されました。とりわけ中国曲は二胡の魅力を如何なく発揮します。やはり二胡は中国の楽器、中国曲にこそ二胡の真髄が詰まっているのです。
好きな曲、弾いてみたい曲は中国曲だけに限りませんが、それを拉くためにもより多くの中国曲に出会い、指導を頂いて一つ一つ技術を身につけていきたい。そしていつか、笑われない程度に拉けるようになったら、中国の風を感じながら自分の楽器を拉いてみたい。そう思い始めています。
学び始めてすぐの秋。杭州で先生の演奏会がありました。二胡の故郷である中国で二胡を聴けたことも刺激になりましたが、私にとって一つの大きな発見がありました。
西湖のほとりで湖水で蘇軾の詩を書いている人に、同じ蘇軾の西湖を題材にした詩の中でも一番好きな「望湖楼下水如天」の詩を書いてもらいました。
目の前には西湖。そしてその西湖を詠んだ蘇軾の詩。蘇軾がいた同じ地に自分がいるということ。点と点がつながっていく感触にふっと詩の一節が思い起こされました。
「物換わり星移りて幾度目の秋ぞ」
このあとには、その当時の人は何処にもいない。というような意味が続きます。でも、秋の西湖で私は逆のことを思い浮かべました。
物や人が移り変わり、星が廻り、もう何度めか分からない秋がきても、西湖のまわりに人々が集う構図は何も変わらない。何百年、何千年も変わらない。ということ。
今という時間は全ての過去の上にある、という当たり前の事実に気付かされました。それは、自分の中に無意識に「私が好きな中国は過去の中国で、今の中国とは違う」という気持ちがあった、という発見でもありました。
つまらない線引きをしていたのは自分。
今というこの一瞬を私は生きていて、中国も日本も今の姿がある。それは断絶されたものではなく、変わらぬ自然の、変わらぬ人の営みの延長上にあるということ。
線引きがなくなり、もっと「中国」の姿を知りたくなりました。「未来」は「今」の延長上にあります。今ある姿を理解することは過去を知ることにも、そしてよりよい未来を築くことにも繋がるでしょう。そのために中国語も勉強し始めました。
十年近く離れようとしていた「中国」。でもどうしても引きつけられてしまう。これからは自分の目、耳、手、足を使って知りたいと思っています。
今までも、そしてこれからもずっと繋がるために。