文化の違いを越えて
藤本優歩
私が中国という国を知り、関わりを持つようになったのは、今から約8年前、小学5年生の時です。
その時は現在のようにスマホを持っておらず、入ってくる海外の情報もごくわずかな限られたものだけで、学校の社会の授業で習う基本的な知識しかもっていませんでした。
小学5年生の時の私は、ラジオを聴くのが好きで、父親にラジオの周波数帳を買ってもらう程でした。買ってもらった周波数帳をペラペラとめくって見ていると中波1044kHzの北京放送(日本語)を見つけ、さっそく聴いて、番組の感想などをお手紙で送ってみました。すると約一ヶ月後にお便りの返事が来ました。これが私と中国の最初の交流です。それから月一回の交流が始まりました。
その頃の中国は、新中国成立60周年や北京オリンピック、上海万博など、中国熱が盛んでしたので、日本人の私には、とても魅力的な隣国に見えていました。
毎月送られてくる北京放送からのお便りには、赤い切り絵やべリカード、誕生日の月にはバースデーカードが入っていました。まだ行ったことのない国の文化に興味津々だった私は、その切り絵やべリカードほしさに週に一回は受信報告書を出したものでした。その切り絵や中国の民族の写真付きのべリカードは、私が中国という国や文化を理解する上でとても役に立ち、中国への探究心をさらにかきたててくれるものでした。
そして私が初めて訪中を果たしたのは高校2年の夏です。遼寧省大連市に5日間訪問し、そのうち一泊は同い年の女の子のお家にホームステイさせていただきました。その子は日本の文化やアニメに興味があるらしく、お土産に持っていった風鈴を「日本風で素敵!」と、とても喜んでくれました。ホームステイする中で、中国の食文化やいろいろな日本の中国の違いについて触れることができ、中国の文化へさらに見識を深めることができました。さらに、お互いに日本語と中国語を教えあいました。「おはよう」や「ありがとう」など簡単な言葉でも、こうして交流することで日本と中国の相互理解につながることを知りました。私が日本へ帰る日に、
「今度は日本であおうね!!」
と、約束をしてハグをして別れました。その時の日中関係があまり良くなく、その約束は結局実現しませんでしたが、しかし、その後は彼女と会えなくてもQQやいろいろなSNSを通じて交流を続けています。
日本で地震や洪水など自然災害が起こったりすると心配してメッセージを送ってきてくれます。中国でなにか起こったときにも同様です。そして、時にはお互いの言葉を教えあったり、時にはアニメの話をします。これからもこの大切な友人との交流が続いていけばいいなと思っています。
私がその5日間の訪中を通じて学んだことは、中国の歴史と食文化、そして日本に対してとても興味を持ってくれている人々がいること。そして、その人々ともっともっと交流すれば日本と中国の明日の未来につながっていくということです。
日本と中国。同じアジアに属し、文化的にも近いこの2つの国は今、国家レベルで見れば両政府の無理解に苦しんでいるように見えるかもしれないけれども、民間レベルでは本当に盛んに相互理解をしようとしているようにおもいます。そして、今後もますます民間の交流が進み、いつの日か日中両国が手をとりあってアジアの発展に協力できる日がくればいいと思っています。その時に、私が日中両国の橋渡しの役割を果たしたいと思います。