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日中の学生の勉学に対する意識の違い

 

 長内涼

私は、工学系の学科に通っている大学2年生だ。中学高校と大して勉強することもなく、何の志も持たぬままなんとなく大学に入った。将来はこういうことがやりたいという確固たる目標もないし、一生懸命勉強しようという意欲もない。私が今何のために勉強しているかといえば、強いて挙げるなら、希望する研究室に優先的に行けるように評定平均を上げておこうと考えているから、という程度である。もっとも、行きたい研究室など特にはないのだが。周りには、そのような考えすらなく、留年せずに無事に卒業できればそれでよいという考えの学生も数多くいる。大学生にもなって、このような有様でいいはずがないと思うことはある。しかし思うだけで実行に移せていないというのが現状である。実行できないということは、実際のところ大した危機感を抱いているわけでもなく、ただ何となくそう思っているにすぎないのだろう。

ある日、中国語の授業で、中国の田舎の高校生についてのビデオ教材を見た。彼らは私たちでは想像もできないほど貧しく、寮の狭い部屋に大勢詰め込まれてごくわずかな食料を頼りに生活しており、それでも毎日懸命に勉強していた。彼らにとって大学に進学できるか否かは家族の将来をも抱えた一大事であり、進学できなければ一生貧しい生活を送り続けることが確定してしまう。家族の期待と将来を背負いながら、彼らは勉強しているのである。

中国の科学技術の発展や教育水準の上昇には、このような貧富の差という背景があるのだろう。努力をしなければずっと苦しい生活のまま、しかし結果を残せば華々しい生活が待っている。このような状況に置かれれば人は否が応でも勉強するのであろう。一方で、日本に住む私たちはどうであろうか。多くの人は最低限の衣食住に困るようなことはないし、大学に行けなくてもそれなりの生活ができるくらいには稼げる。大学に入ってからも、よほど手を抜かない限りは卒業できる。このような環境では、熱心に勉学に打ち込む者が少なくなってしまうのも当然かもしれない。

勉強というものが、ただなんとなくやるだけの義務的なものになっていると感じる。知識を身に着け、それを応用し、新たなものを作り出そうという発想からは程遠いところに位置している。本来勉強とはより良い文明を築くための手段であるはずなのに、それ自体が目的となってしまっているように思う。自分が頑張らなくても、より豊かな国にするために、また平和な国を維持するために、誰かが何かをやってくれる。生まれたときには既に恵まれた環境が用意されている――そんな我が国で生まれ育ったら、自分で道を切り拓こうという精神など初めから持つことは無いのかもしれない。

今日、中国の高い技術力と生産性に押され、撤退を余儀なくされているメーカーも出てきている。国力という点ではしのぎを削るライバルといっていい状態なのかもしれないが、学生の意識という点で見れば日本は中国に大きく劣っていると思う。このことは数十年後の両国の関係に大きな影響を及ぼすだろう。今のままでは、将来的にありとあらゆる分野で中国に負けてしまうのではないだろうか。今こそ、日本の教育を見直し、自らの手で未来を創り上げてゆける逞しい若者たちを育てていくべき時であると思う。そして、学生である私たち自身は、もっと自主的に、もっと意欲的に勉学に励んでいかなければならない。お手本となる学生たちがすぐ近くの国に大勢いるのだから、その姿勢を私たちも見習わなければならないだろう。

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