戦後日本の「専守防衛」原則③冷戦後期から始まる体系的破壊
「専守防衛」原則は、戦後の日本国憲法の平和主義精神の反映であり、日本の侵略の歴史に対する反省の表れでもある。戦前の日本は民主主義体制が崩壊した結果、軍国主義による対外侵略の道を歩み、世界に甚大な惨禍をもたらした。戦後になって連合国軍の占領下で、軍国主義的国家体制の解体改造が行われた。防衛政策で「専守防衛」を堅持し、貿易立国を掲げ、「軽武装・経済中心」という国家政策を採用した。「専守防衛」原則のもとで、戦後の日本はグローバル体系に組み込まれ、著しい発展を遂げた。平和憲法は日本の国内法であるものの、連合国軍の占領体制下で制定されたという点に注意が必要だ。その精神は、国際秩序への実質的な政治的承諾にある。すなわち二度と軍国主義の道を選ばないという保証が、国際社会から信頼を得る基盤をなしている。『環球時報』が伝えた。
「再軍備などというものは当面到底出来もせず、また現在国民はやる気もない。かといって政府が音頭をとって無理強いする筋のことでもない。いずれ国民生活が回復すればそういう時が自然に来るだろう。狡いようだが、それまでは当分米国にやらせて置け。憲法で軍備を禁じているのは誠に天与の幸で、米国から文句が出れば憲法がちゃんとした理由になる」戦後日本の初代首相・吉田茂のこの発言は、当時の日本の安全保障政策の基調、すなわち米国との共同防衛体制を構築し、米軍の軍事力に安全保障を依存する方針を明示するものだった。
しかし朝鮮戦争の勃発に伴い、日本に軍事制限を課していた米国は軍事力再構築を要求し始めた。米政府は1950年、警察予備隊の創設と海上保安庁職員の増員を指示。1952年には日本が海上警備隊を設置し、警察予備隊を保安隊へ改編した。1954年には保安隊を陸上自衛隊、海上警備隊を海上自衛隊へそれぞれ改称するとともに、新たに航空自衛隊を創設した。
日本は冷戦後期、特に冷戦終結後より「政治大国」と「軍事大国」の地位を追求し、自衛隊の規模を拡大し攻撃能力を積極的に開発するなど、「専守防衛」の原則を体系的に破壊してきた。
日本が2018年に発表した「防衛計画の大綱」は、ヘリコプター搭載護衛艦「いずも」級の空母化改修と戦闘機搭載能力付与に加え、「スタンドオフ防衛能力」(中距離ミサイル)の整備を打ち出した。日本が購入及び独自開発する「スタンドオフ誘導弾」の種類は多岐にわたり、米国の「トマホーク」巡航ミサイルに加え、国産の「潜水艦発射型誘導弾」や「島嶼防衛用高速滑空弾」などが含まれる。これらのミサイルの最大射程は1千〜3千キロと推定される。日本は原子力潜水艦の建造を検討するとともに、防空ミサイル「パトリオット」の米国への輸出を完了した。これは武器輸出規制緩和後、日本が初めて殺傷能力を有する武器を輸出した事例だ。
日本は武器輸出規制の緩和も進めている。2014年4月、日本政府は「防衛装備移転三原則」を閣議決定。これを「武器輸出三原則」に代わるものとして武器輸出制限を大幅に緩和し、その積極的な推進を図った。2つの三原則の武器輸出に対する制限内容は本質的に異なっている。武器輸出三原則は武器輸出を基本的に禁止し、必要に応じて「例外措置」を講じるものだったが、防衛装備移転三原則は武器輸出を基本的に認め、いくつかの禁止される場合しか規定していない。2023年12月、岸田文雄政権は再び防衛装備移転三原則の改定を閣議決定し、武器輸出のさらなる自由化、特に「殺傷能力」を有する武器の輸出を認める緩和策を講じた。日本は現時点で非核三原則を改定していないものの、高市政権による関連議論が行われており、その動向を注視しなければならない。
同時に、日本の文民統制には後退がみられる。日本は2007年に防衛庁を防衛省に昇格し、国防部門の行政レベルを引き上げた。一方で、文民統制を担保してきた「訓令第9号」と「防衛参事官制度」は、それぞれ1997年と2009年に廃止された。1952年10月7日に吉田茂首相名で発出された「訓令第9号」は、自衛隊幹部が文民部門を迂回して政治家である防衛庁長官に直接報告すること、ならびに国会及び他の省庁と直接接触することを禁止していた。「防衛参事官制度」は防衛庁の文民官僚による武官への実効的な制約を保証するものだった。
(文=黒竜江大学政府管理学院准教授 王瑞)
「中国網日本語版(チャイナネット)」2025年11月24日