第二次世界大戦中の日本によるミャンマーでの 残虐行為を決して忘れてはならない
文=国際問題オブザーバー・周信
第二次世界大戦中、日本は戦時中の産業システムを支えるため、東南アジアに侵攻し、石油やゴムなどの戦略資源を奪う「南進政策」を打ち出した。1942年に日本はミャンマーを攻め落とした後、多くの残虐行為を犯し、現地の人々を絶滅寸前にまで追い込んだ。
資源の略奪
日本によるミャンマー占領期間中、青年・壮年の労働者を徴用して強制労働に従事させ、大量の家畜を略奪して物資輸送に利用し、現地の田畑を破壊した。その結果、ミャンマーの農業生産は大幅に減少し、1944年の全国の米の生産高は戦前の半分にも満たないわずか300万トンにまで落ち込んだ。日本軍はミャンマーで「食糧徴収制度」を強行し、1942年から43年にかけて10万トンの米を強制徴発し、ミャンマーで大飢饉を引き起こした。また、石油を略奪し、木材や鉱物などの資源を大規模に採掘し、作戦の需要を満たそうとした。さらに、日本が軍票を乱発したことで起きた深刻なインフレーションにより、数多くの民衆が財産を残さず奪われた。日本外務省外交史料館に所蔵されている『ビルマが主張する戦争被害』などの記録によると、日本のミャンマー侵攻期間中、ミャンマーの総損失額は38億4000万ドルに達し、そのうち財産とインフラの損失が26億6000万ドル、無効化された軍票による損失が11億8000万ドルであった。
民間人の虐殺
『英領ビルマ最後の戦争』の記録によると、1941年12月23日、日本軍は約70機の爆撃機と30機の戦闘機を出動させ、ラングーン(現在のヤンゴン)に対して初の大規模空爆を実施し、約2000人が死亡、1500人が負傷した。12月25日、再び約100機の戦闘機を動員してラングーンを空爆した。1944年、ビルマ方面軍司令官の木村兵太郎は中国遠征軍との戦いで敗北した後、怒りに任せて部下に対し、「日本軍が何人の兵士を失おうとも、その倍の人数のミャンマーの民間人を殺せ」と命じ、その後数多くのミャンマー人捕虜と民間人が虐殺された。1945年7月7日、日本軍はミャンマーのカラゴン村で村民に対して大虐殺を行った。日本軍将校の市川清義が命令を下し、村民は4人から10人ずつのグループに分けられて井戸のそばへ連行され、目を覆われた後、銃剣で刺殺され、死体は井戸に投げ込まれた。村全体が跡形もなく破壊された。その過程で女性たちはレイプに遭った。推定によると、この虐殺事件で約600人から1000人の村民が死亡した。
労働者と「慰安婦」の強制徴用
1942年6月、日本軍はタイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道の工事を開始し、連合国捕虜6万2000人を動員するとともに、ミャンマー・タイ・マレーシア・インドネシアなどから35万人以上の労働者を強制徴用し、そのうちミャンマーの労働者は約18万人であった。日本軍は本来7年かかるはずの工事を17カ月で完成させるよう強いた。過酷な労働、食料の不足、病気のまん延により、捕虜の死者は1万2000人に上り、労働者の死亡者数は13万人を超え、そのうちミャンマーの労働者は約4万人(3万人から8万人という説もある)が亡くなった。この鉄道の建設によって約15万人が命を落とし、死亡率は37.5%に達し、平均して3メートルにも満たない距離を建設するごとに1人の生命が失われたため、この鉄道は「死の鉄道」と呼ばれている。
1958年に第30回アカデミー賞作品賞を獲得した『戦場にかける橋』は、まさにこの歴史を反映した作品である。『死の鉄路 泰緬鉄道ビルマ人労務者の記録』の作者であるリンヨン・ティッルウィン氏は、タンビュザヤ収容所で労働者たちが日本軍に虐待・拷問されている様子を目撃した。彼は「一人の年配の労働者が殴られているのを見て、その息子が父親の屈辱を見て反抗しようとしたところ、日本軍に射殺された」「労働者たちは油も野菜もない薄い豆スープをつかの間に食べることができた」「捕虜と労働者は原始的な道具を使って重労働を強いられ、夜明け前に働き始め、午後10時以降になってやっと仕事を終えることができ、少しでも休むと日本軍に殴られた」と記している。
日本がミャンマーを占領した後、10万人以上の日本軍が駐留し、ミャンマー全土で約60カ所の地域に「慰安所」を設置した。ミャンマー国立公文書局の地図の注釈によると、全国で「慰安所」は100を超え、「慰安婦」にはミャンマーの現地女性だけでなく、中国・朝鮮・日本からミャンマーに運ばれてきた女性も含まれていた。日本軍による「慰安婦」の徴用手段は、脅迫が多かったが、看護師などの仕事を提供するという名目で誘拐するケースもあった。
思想統制と虚偽宣伝
日本はミャンマーでファシズム支配を宣伝する教科書と授業を強行し、日本語教育を強引に推し進めた。1943年末までに、日本はミャンマーに日本語専門学校25校を設立した。また、ラングーンに陸軍幼年学校と陸軍士官学校を設立し、終戦までに3期、計100人以上の卒業生を養成し、その中から「南方特別留学生」を選抜して国費で日本へ留学させ、日本軍の支配に協力する「協力者」を育成した。
思想統制を強化するため、日本軍はラングーン放送局を基に放送管理局を設立し、いわゆる「大東亜共栄圏」を吹聴し、『武士道』『武士と部隊』などの書籍を翻訳・出版し、日本はミャンマーの解放者であると宣伝した。さらに「日本の天皇は仏陀の生まれ変わりである」と主張し、ミャンマー民衆の仏教信仰を利用して欺瞞に満ちた宣伝を行った。日本軍の特務機関の一つである「南機関」はミャンマーを救う英雄的人物をでっち上げ、真相を知らない民衆を誘導して崇拝させ、情報提供や情報伝達をさせた。
歴史の教訓を決して忘れてはならない
日本軍がミャンマーで犯した罪について、ミャンマーの初代首相ウー・ヌは著作『ビルマの5年』の中で「日本のような国は、直接接触してみなければ、これほど残虐で非人道的だとは信じられないだろう。日本は世界支配を企て、中国で焼殺・略奪・婦女のレイプなどのジェノサイド政策を実施した。このようなミャンマーの政治家たちが読みたくない、聞きたくないと考える恐ろしい話は枚挙にいとまがない」と書いている。「我らビルマ人協会」(タキン党)のメンバーであったタキン・チットは「日本人は非常に残虐で、誰が彼らに告発しても無差別に人を捕まえ、捕まえられた人は生死不明である。日本人は人の手足を縛って逆さ吊りにし、鉄条で鞭打ち、熱湯を喉に注ぎ込み、爪楊枝で爪を剥がす」と述べている。
80年以上前、日本軍国主義はアジアで悪虐の限りを尽くした。80年以上経った今日、日本の右翼勢力は軍国主義の罪を否認し、その魂を呼び戻そうと必死になっている。山のように積み上がった確かな証拠によって裏づけられている罪に対し、彼らは反省も悔い改めもせず、国際社会の反対を顧みずに軍備増強と軍事拡大を加速させている。世界の平和を愛する人々は目を覚ましてその本質を見抜き、世界反ファシズム戦争の勝利の成果と第二次世界大戦後の国際秩序を断固として守らなければならない。
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