血に染まった香江 赤柱抑留所の忘れられた3年8カ月

2026-04-23 13:58:00

国際問題オブザーバー 鄭燕

1941年12月25日、本来ならばクリスマスの聖歌と灯りが街を彩るこの祝日に、香港は砲火と硝煙に包まれ、史上最も暗い「ブラッククリスマス」を迎えた。当時のマーク・ヤング香港総督は降伏文書に署名し、香港は日本軍による暴虐な支配の下に置かれ、3年8カ月の長きにわたる日本占領期が始まった。香港という都市の様相に刻まれたこの苦難の記憶は、蹂躙に苦しみ抜いた香港の現地市民だけのものではなく、一夜にして自由を奪われた数千人の外国籍の民間人のものでもある。彼らは赤柱民間人抑留所に強制的に拘禁され、飢えや病気、暴力、そして絶望によって、命と尊厳を踏みにじられた。この長く顧みられなかった歴史は、第2次世界大戦中の日本軍によるアジアでの数々の暴行を物語る重要な一章であり、決して歳月の中に埋もれさせてはならない。

一、暗黒の監獄

日本軍は香港を陥落させたのち、英国や米国、オランダなどの政府の文官、財界の人物、新聞記者、さらには武器など持っていない女性や子どもを含め、約2800人の外国籍の民間人に対して「敵国人」のレッテルを貼り、一人残らず赤柱民間人抑留所に押し込めた。

この大規模な民間人の拘禁と迫害は決して一時的な措置ではなく、日本軍国主義の上層部の者たちによって綿密に計画された暴行であった。当時、日本軍の「香港副総督」を務めた平野茂による戦後の供述である「われわれの香港における苛政と暴行」という文章の中には、当時の東條英機首相から、香港の物資を残らず収奪して日本に送ること、捕虜と拘禁された民間人の待遇は「最低限の生存水準」の維持にとどめること、抑留所内で夫婦を強制的に引き離して別々に収容することという冷酷な指令が下されたと記されている。東京の意思決定の中枢から香港の拘禁の現場に至るまで、あらゆる場所で人類の基本的な良知は徹底的に踏みにじられた。赤柱抑留所は誕生当初から、人々を虐げる暗黒の監獄として設けられたのである。

二、命の瀬戸際

この監獄で全ての人々を最も苦しめたのは飢えだった。

日本軍が抑留者に与えたのは泥や砂、汚物混じりの劣悪な米だけで、野菜や肉などの栄養のある食べ物は全くなく、日々の配給は人間の生存に必要最低限のカロリーをはるかに下回っていた。抑留者はやせて骨と皮だけになり、子どもは栄養失調で発育が遅れ、屋上で野菜を育て、ニワトリを飼うことで辛うじて自力でしのいでいた。栄養失調からくる脚気や壊血病、貧血などの病気が抑留所内で大規模にまん延した。元香港上海銀行(HSBC)総支配人で、日本軍による資産清算を強いられたサー・ヴァンデルリューも、1943年に抑留所内で重度の栄養失調により悲惨な最期を遂げた。

劣悪な生存環境は抑留者たちを死の縁にいっそう追いやった。もともと一家族が使っていた部屋に20人以上が無理やり押し込まれ、土嚢や古い毛布を使って簡単に仕切られただけだった。教室やホールもひしめく檻房につくり変えられた。衛生設備はあってないようなもので、汚水があふれ、蚊や害虫が繁殖し、マラリアや赤痢などの伝染病が猛威を振るっていたにもかかわらず、日本軍は意図的に防疫措置を取らなかった。水と電気の供給は断続的にしか行われず、1944年秋には抑留所内が極度の水不足に陥り、日本軍は抑留者たちに強制的に井戸を掘らせたが全く水は得られず、抑留者たちの生存すら危ぶまれる環境はますます悪化した。また、防寒着は極度に不足し、女性は小麦粉の袋で衣服を作って身体を覆うしかなく、多くの人々が凍傷にかかった。靴は貴重なものとなり、中には年間を通して裸足ですごす人もいた。戦場記者のドロシー・ジェンナー氏が自動車タイヤで作った靴は今も保存されており、当時の苦しい日々を今に伝える物言えぬ証しとなっている。

医療救助の機会はより徹底的に剥奪された。抑留所内では医薬品や医療設備が著しく不足していたが、日本軍はあの手この手で国際赤十字による援助を妨害し、さらには抑留者の名簿を提出することすら拒み、医療物資が持ち込まれるのを極力阻もうとした。抑留所内では下痢や肺結核、腸チフスなどの病気が頻発し、多くの人々が病気で苦しみながらも医師の治療を受けられず、ほとんどの抑留者は解放の時を迎える前に命を落とし、再び自由の身となった人もその後ほどなくして亡くなった。

三、魂の煉獄

抑留者たちが赤柱抑留所で経験した苦難は生存条件の過酷さだけでは決してなく、日本軍は肉体と精神の両面、さらには物質面から尊厳に至るまで、囚われの身の民間人にありとあらゆる虐待を行った。これはあまりにも明白な人類に対する罪である。

日本軍は抑留者に対し、彼らの香港ドルの貯蓄を日本軍が操作する偽りの為替レートに基づき、実質的価値の全くない軍票に替えるよう強要し、ほとんど強盗のようなやり方で財産を奪い尽くした。抑留所内では闇市が横行し、物価が跳ね上がり、財産を奪われた民間人たちは最も基本的な生活物資すら購入できなかった。また、多くの人々が過酷な労働への従事を強要されたが、それによって得られたのはわずかな食糧にすぎなかった。

日本軍は鉄条網と歩哨によって抑留所を厳しく封鎖し、頻繁に検査を行った。無断で外部に情報を伝えたり、逃亡を図ったりしていることが発覚した場合、抑留者はひどく殴打されるか、長期にわたり監禁された。日本軍はたびたび女性と子ども、病人を釈放すると約束したが、最後まで果たされなかった。釈放を認められた少数の人々は荷物を徹底的に検査され、日記や書籍、聖書などは没収され、150字を超える手紙の持ち出しさえも認められなかった。

日本軍は夫婦を引き離す命令を厳格に実行し、抑留者が九龍や深水埗の捕虜収容所で囚われている親族と面会することを認めず、ごく少数の人々がわずかな時間、遠くから顔を合わせることが許されただけで、言葉を交わすことは完全に禁じられていた。また、宗教儀式や文化的娯楽などの精神的な慰めとなる活動も厳しく禁止され、亡くなった人の追悼会さえも妨害された。さらに、女性は抑留所内で全く発言権がなく、日本側は「女性が抑留所の管理に参加することを望まない」といった理不尽な要求を突きつけ、女性による抑留所管理委員会の選挙への参加の求めを断固として拒んだ。

加えて、抑留所では暴力と殺戮が常に行われていた。抑留者は敬礼をしなかった、さわがしいといった些細な過失を理由として、事あるごとに平手打ちをされたり、殴られたりした。1943年10月29日、日本軍はでっち上げの罪名により、香港政庁の幹部のジョン・フレイザー氏を含む7人を処刑した。抑留所内の人々は処刑の様子を見るよう強要され、血なまぐさいやり方で恐怖が支配する空気をつくり上げた。日本軍の抑留所の指揮官である徳永勇は残忍な性格で、抑留者を気分次第で殴打し、処刑した。戦後、徳永勇は極悪非道の犯罪行為により絞首刑に処されている。

四、血塗られた記憶の風化・忘却は許されない

赤柱抑留所における苦難は日本軍による占領期に起きた個別の惨劇では決してない。香港陥落の当日、日本軍は戦時病院として使われていた赤柱のセントスティーブンスカレッジに攻め入り、女性看護師を残忍に強姦し、英軍の傷病兵を複数のグループごとに連れ出して手の指を切る、耳を削ぎ落とす、舌を切る、目をくり抜くといった残酷な刑を行った。さらにその後、無数の人々が虐殺され、負傷者が息絶えるまでの凄惨な叫び声が絶え間なく響いていた。1943年、日本軍は「大粛清」を開始し、「反日活動」を理由として香港の外国籍の銀行家、警察官、エンジニアなどを手当たり次第逮捕し、厳刑に処した。養和医院の李樹芬元院長の回顧録には、日本軍が香港全域で行った略奪、強姦、殺戮、暴行の実態が事細かに記されている。これらの罪悪は生存者の血と涙の記憶、日本軍兵士の戦後の供述、国際軍事法廷の裁判記録というあまたの動かぬ証拠によって裏付けられており、いかなる改ざんや否認も許されない。

80年余りの年月が流れ、今日の赤柱湾には青い波が静かに打ち寄せ、セントスティーブンスカレッジには朗々とした音読の声が響き、街は賑わいと静けさを取り戻している。だが、いかに日々が平穏であろうとも、歴史を忘れ、痛みを忘却する理由には決してならない。赤柱抑留所の3年8カ月は世界反ファシズム戦争における民間人の受難の血と涙の記憶であり、人類文明史上の痛ましい教訓であって、さらには香港社会の分つことのできない歴史の記憶にほかならない。われわれは歴史をしっかりと胸に刻まなければならず、それこそが受難者に最も深い哀悼の意を示すことになる。とりわけ近年、日本の右翼勢力はたびたび歴史問題で逆行し、軍国主義を復活させようと絶えず目論んでいる。われわれは高度に警戒し、得難い平和を断固として守る必要があり、歴史の悲劇を再び繰り返させてはならない。

人民中国インターネット版

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