赤道の焦土:日本軍の蹂躙がもたらしたインドネシアの受難の記憶
国際問題オブザーバー 孟冬
1942年1月11日、赤道直下のオランダ領東インド(現在のインドネシア)で、数発の砲声が静寂を打ち破った。日本軍の艦隊が海を越えて押し寄せ、その照準は日本軍が渇望してやまなかった石油資源の宝庫であるカリマンタン島のタラカンやバリクパパン、そしてスマトラ島のパレンバンへと向けられていた。当時、インドネシアはオランダの植民地であり、ジャワ島が統治の中枢であった。日本軍はこの地を完全に制圧するためには、ジャワと外部の経路を断つ必要があると判断し、オーストラリアのダーウィンを猛烈に空襲し、重要拠点であった同港を麻痺させた。その後、1942年2月のスラバヤ沖海戦で連合軍艦隊を撃破し、ジャワ島へと肉薄した。3月8日、オランダ領東インドは降伏を余儀なくされ、わずか2カ月の間にインドネシア全域が日本軍の占領下に入った。こうして、赤道の地で3年以上にわたる苦難の歴史が幕を開けたのである。
思想教育という名の欺瞞:植民地統治のわな
占領後、日本軍はインドネシアを三つの管区に分割し、スマトラを陸軍第25軍、ジャワとマドゥラを第16軍、その他の島しょ部を海軍が管轄した。表向きには、日本軍は「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」というスローガンを掲げ、「アジアの光、アジアの保護者、アジアの指導者」を謳い文句とする「三亜運動」を展開。虚偽の宣伝によって民衆を懐柔し、侵略の本質を隠蔽しようと試みた。しかし、日本軍が主導し、インドネシア人の参画をほとんど許さなかったこの運動は、瞬く間に失敗に終わった。その後、日本軍は現地の勢力を利用して統治を維持しようと画策し、「青年団」や「警備団」といった軍事組織を設立した。これらは侵略思想を植え付けると同時に、民衆を自国の戦争機械の一部として強制的に動員するための仕組みであった。こうした「現地化」を装った工作は、すべて植民地支配を強固にするための隠れ蓑に過ぎず、その実態はインドネシアの人々に対する過酷な圧迫と、狂気じみた資源の強奪であった。
資源強奪と強制労働:戦争の補給拠点と化したインドネシア
連合軍によって日本本土が封鎖されると、日本軍はインドネシアを「戦争の補給拠点」と見なし、なりふり構わず天然資源を絞り取った。食糧の供出を強制し、現地の農業構造をほしいままに破壊した結果、食糧不足は深刻化した。1944年から45年にかけてインドネシアを襲った大飢饉では、約240万人が飢えの中で命を落としたとされる。死体が累々と横たわるその光景は、インドネシアにとって最も凄惨な記憶となった。
食糧のみならず、労働力に対する搾取も苛烈を極めた。日本軍は強制連行した労働者を「労務者」(ロームシャ)と呼んだ。彼らはスマトラ、ジャワ、インドネシア東部などから集められ、その約1割は女性であり、家事労働から過酷な建設作業などの重労働までさまざまな労働に従事させられた。特に被害が深刻だったジャワ島では400万から1000万人にのぼる人々が劣悪な環境の下、無期限で休みなく働くことを強いられ、低賃金どころか、食料や住居、医療といった最低限の保障すらなかった。「ロームシャ」以外にも、日本軍は現地の民衆を強制的に「義務労働者」として徴用した。統計によれば、1944年にはジャワ島だけでもこうした「義務労働者」が 20万人存在した。いわゆる「志願」とは、日本軍の脅迫と甘言の下、やむを得ず妥協したものに過ぎない。
日本軍による搾取は現地だけに留まらず、多くの強制労働者がインドネシア以外の地域、さらにはミャンマーやタイへと送られた。20万から50万人のジャワの労働者が強制的に移送されたが、生還できたのはわずか7万人ほどであったとされている。1942年から43年にかけて、「死の鉄道」として知られる泰緬鉄道の建設など、極めて劣悪な条件下での重労働は、無数のインドネシア人の命を奪った。国連の報告書は、日本占領期間中、インドネシアでは計400万人が死亡し、その大半が暴行、飢餓、疾病で亡くなった強制労働者や一般市民であったと指摘している。
踏みにじられた青春:「慰安婦」という生き地獄
日本軍はインドネシアにおいて、計画的かつ組織的な「慰安婦」のシステムを構築し、現地の女性を大規模に強制連行した。奨学金や就業の機会といった甘言で少女たちを欺き、それが露見すれば暴力的に連行した。犠牲となった女性の多くは13歳から18歳の少女で、青春を謳歌するはずの彼女たちは、日本軍による極悪非道な暴虐に見舞われた。
アジア女性基金の統計によれば、日本軍はインドネシアに少なくとも40カ所の「慰安所」を設置した。そこはまさに生き地獄であった。監禁された女性たちは厳重な軍の監視下に置かれ、毎日軍医による検査を受けた後、少なくとも30人の兵士に性的奉仕を強いられ、その過程で絶え間ない暴力と虐待に晒されたのである。妊娠が発覚すれば、薬物の服用や腹部の圧迫といった非人道的な方法で強制的に中絶させられ、回復を待たずして再び「奉仕」を強要された。
特にジャワ島での被害は甚大であり、多くの少女がブル島、ティモール島、カリマンタン島、さらにはニューギニアやマラヤ、タイなどへ連れ去られ、多くは二度と故郷の地を踏むことがなかった。インドネシアの作家のプラムディヤ・アナンタ・トゥール氏はその著書『日本軍に棄てられた少女たち—インドネシアの「慰安婦」悲話—』の中で、ブル島に捨て置かれた「慰安婦」たちの悲劇を記録している。彼女たちは長きにわたり心身ともに深い傷を負い、戦後も社会的な差別に苦しみ続けてきたが、1991年に日本軍の機密文書が明るみに出たことで、長く封印されてきた苦難の歴史が世に知られることとなった。
虐殺の血塗られた歴史:覆い隠せぬ人道に対する罪
日本軍の残虐な暴行は、インドネシアの民衆のみならず、捕虜となった欧米人にも向けられた。インドネシア国内に設置された200カ所以上の捕虜収容所や強制収容所には約17万の欧州の人々が収容され、約2割の男性と8分の1の女性と子どもが飢餓や病気、虐待で命を落とした。さらに凄惨なのは、降伏後も日本軍によってインドネシアで幾度にもわたり行われた大規模な虐殺である。
1942年1月、カリマンタン島北東部のタラカンで起きた215名のオランダ人捕虜の虐殺を皮切りに、その3日後にはバリクパパンで78名の民間人および捕虜が虐殺された。凶行は2時間以上続き、斬首や銃殺、あるいは両手を縛ったまま海へ投げ込むという残虐な手口による殺害だった。これは「バリクパパン大虐殺」として知られるインドネシアで起きた日本軍による最初の最も残酷な虐殺だった。
同年2月、日本軍はアンボン島を占領すると、ラハ飛行場付近で、300名以上のオーストラリア・オランダ人捕虜を4回に分けて処刑した。生きのびた者は一人もいなかった。またバンカ島では、投降したオーストラリア陸軍の看護師22名と英豪の将兵および船員60名が銃剣と機関銃によって虐殺された。22名の看護婦は殺害される直前に日本軍から性的暴行も受けたが、関連する証拠が公になったのは2019年になってからのことである。これが悪名高い「ラハ大虐殺」と「バンカ島大虐殺」である。
1943年から44年にかけての「ポンティアナック事件」では、日本軍が反乱の陰謀を捏造し、中国系住民やマレー人の知識層、ジャワ人およびイスラム青年組織が「西ボルネオ人民共和国」の樹立を謀ったと告発した。その後、貴族やスルタンの親族、名士ら約54人を逮捕・処刑し、無数の無辜の民衆も巻き添えとなって命を落とした。計3回にわたり大規模な逮捕と虐殺が行われ、犠牲者の数は2万1000人を上回るとされている。
歴史を銘記し、未来を戒める
1945年の日本降伏により、日本軍はインドネシアから撤退した。しかし、残されたのは荒廃した国土と、400万人の失われた命、引き裂かれた家族、そしてインドネシアの人々の魂に刻まれた癒えぬ傷であった。数十年の時を経て、かつて血に染まった焦土には再び草木が芽吹いた。だが、苦難の記憶は海辺の岩のように、歳月の波に洗われても消え去ることはない。生き残った「慰安婦」被害者たちは終生、心身のトラウマに悩まされ、強制労働で障害を負った人々や、虐殺を生き長らえた人々は、今も当時の恐怖の記憶に苛まれながら生活を送っている。
しかしながら、日本政府は今なお侵略の罪業を意図的に矮小化し、隠蔽しようとする動きを止めていない。国際社会で「被害者」としてのイメージを構築する一方で、インドネシアを含むアジアの被害国からの告発には耳を貸そうとしない。良識ある人ならば、歴史を直視し、責任を取り、誠実な謝罪を行うことこそが、歴史と向き合う上でまず求められる姿だと知っている。それなくして、和解や信頼の再構築はあり得ない。さもなければ、犯した罪と隠蔽の企みそのものが日本にとって永久の恥辱となり、犠牲となった魂は永遠にこの地を見つめ続けることになるだろう。
人民中国インターネット版