裁きと反省を同時に追求した独自の平和貢献 新中国の戦犯裁判開廷70周年を記念して
文=石田隆至(上海交通大学人文学院副研究員)
この春、中国では東京裁判の開廷80周年が大きく取り上げられた。東京裁判は日本の侵略戦争を国際法で裁き、更なる侵略を許さない戦後の国際秩序を規定した。ところが、いま世界各地で侵略行為が相次いでいる。日本も防衛費を急増させ、敵基地攻撃能力の保有さえ決めた。アジア最大の被害国として、東京裁判という戦後の原点にもう一度立ち返ろうと呼びかける意義は大きい。
他方で、裁かれた側の日本では東京裁判に注目する気運はほぼ見られない。戦争指導者が侵略の罪で有罪判決を受け、戦後憲法で不戦を誓ったはずだが、同盟国米国やイスラエルによる侵略にはまるで他人事である。右翼言論人は例外で、中国で東京裁判が取り上げられていることを受け、性懲りもなく南京大虐殺の歴史を歪曲しようと画策している。
他方で、70年前の1956年6月9日に“最後の対日戦犯裁判”が開廷したことは、中日双方で注目されることがない。
単にその史実が知られていないので、記憶を共有しようとしてこう言っているのではない。新中国による戦犯裁判の意義はほとんど認識されず、正当に評価されてきたとは言い難い。ただ、歴史事実と普遍的な考察基準に基づいて正視するとき、一方的な力の行使が続く現在の国際社会あるいは中日関係に与える示唆が大きいと考えるからである。
まず、基本事実から確認しよう。
70年前の今日を皮切りに、翌7月にかけて瀋陽と太原に設置された最高人民法院特別軍事法廷で45人の日本人戦犯が起訴された。法廷審理を経て、全員に懲役8年から20年までの有期刑判決が下された。東京裁判のほか、8ヶ国9政府がBC級戦犯裁判を行ったが、死刑・無期刑を一人も科さなかったのは新中国だけである。この他に、1017名の戦犯を起訴免除処分とした。これは、後述するように、有罪を認定するがそれ以上の刑罰を下さないという新中国独自の裁きだった。こうした結果から、「寛大な裁き」と称されることになった。
陸軍の将官級や傀儡政権「満洲国」の最上級行政官も対象だったにもかかわらず、これほど処罰が軽度だったのは、この裁判のもう一つの大きな特徴に関係している。戦犯たちは裁判が始まる6年ほど前に管理施設に収容された。その期間中に行われた検察官による取り調べの過程で、ほぼ全員が自身の罪を認め、反省・悔罪を示していたのである。結果だけを文字にすればその意義が伝わりにくい。ただ、東京裁判など先行の戦犯裁判では、日本人戦犯の大部分が自身の罪を認めなかった。審理を経てもなお、有罪であることを受け入れた戦犯はごく僅かだったといえばどうか。新中国の法廷は、罪行が重大であることを認定しつつ、既に罪を認め、反省を示していることを積極的に評価して判決を下したのである。
ただ、事態はより複雑である。罪を認めようが否認しようが判決は下され、刑を執行すれば裁判は終結する。冷戦が進行し、連合国による民主化・非軍事化の占領改革が逆回転を始めるなか、A級戦犯らが反動的に振る舞ってもさほど問題視されなかった。他方で、全員が自身の罪を認めた新中国の戦犯裁判には、「総懺悔」「洗脳」「忖度」といったまなざしが内外で向けられた。「認罪・悔罪」した新中国のケースの方が疑わしいとみなされたのである。その延長で、新中国の裁判そのものにも「法的根拠のない茶番劇」「筋書きのある劇場型裁判」といったまなざしが向けられた。東京裁判などは1980年代以降に検察史料などを用いた実証研究が進展したのに対し、新中国の裁判については一定の史料が存在しながらほとんど研究されてこなかった。
筆者は2000年代に入って中国出身の研究者とともに、新中国の裁判の対象となった戦犯たちの帰国後の歩みに関して調査研究を始めた。他の裁判では、有罪あるいは釈放された戦犯たちの足取りはほとんど追跡できない。組織的に活動することもなく、せいぜい戦犯裁判の不当性を一方的に訴える回想録が残された程度である。
他方で、新中国の裁判対象者らは帰国してすぐに平和団体を結成し、全員を対象に組織化した。反戦平和・日中友好を掲げた運動は、冷戦下の日本では強い反発を受けた。そのため、消極的な関与にとどまった帰国戦犯も少なくなかったが、2000年代はじめまで組織活動を続けた。活動の焦点は、彼ら自身が法廷で認めた加害責任を具体的に日本社会に伝えるところにあった。戦後の日本では、軍人らの大部分が戦場での加害の実態に口をつぐんでいた。だから、銃後の市民や戦後世代は戦場や植民地での日本の残虐性をほとんど知らないままだった。他方で、原爆や都市空襲、引き揚げなどの日本の「被害」は具体的に語られてきた。その不均衡さに危うさを見出した戦犯たちは、出版や講演活動などを通じて加害の実態を語り、「平和国家」が再度の侵略に転じるのを防ごうとした。晩年まで語り続けた戦犯たちを50名近く訪ね歩き、その経験を聴き取ってきた。
日本の戦争経験者のなかで、新中国の戦犯たちだけがこうした問題意識から平和実践を続けたのはなぜなのか。その特徴的な帰結を生んだ裁判についても調べ始めた。管理教育担当者、裁判官、検察員、弁護士、鑑定人やそれら遺族など数十人から実態を聴き取った。中国の戦犯政策に関する一次史料、各地の档案館などに所蔵されている検察史料なども用いて、裁判の実態に迫った。当事者の語りと一次史料に基づいた検討は、既存の裁判像とは異なる新たな姿を浮かび上がらせた。新興の社会主義国で、西洋の法体系からも距離があった新中国の裁判は不十分な点が多かったというイメージが先行してきたが、実際にはそうではなかった。
それを明確にするには、他の戦犯裁判との比較が有効な方法になる。最新の研究では、「共通の比較分析軸」を設定した検討がなされている。以下の4項目について確認してみよう。
第一に「訴追準備」。東京裁判では、侵略の罪や米欧諸国出身の捕虜への虐待・虐殺などに焦点が当てられた。他方で、細菌戦・化学戦は証拠を収集しておきながら不訴追とし、天皇は開廷前に免責されるなど、米国主導の政治力学によって大きく左右された。証拠収集は開廷後にも随時実施されるなど、後手に回った。最大の被害国である中国で行われた大規模犯罪の多くが扱われなかった。BC級戦犯裁判にも同様の傾向があるほか、証拠として関係者の証言に大きく依存するという限界があった。この点は、法廷審理を経ても罪を認めない戦犯が多かったという限界につながった。看守による暴行が見られたことも無関係ではない。
新中国:検察による犯罪調査は3年以上かけて中国全土で実施され、膨大な物的証拠や証言が収集された。証拠が不十分だという批判があるが、当時の人民検察の手法を視野に入れるとどうか。物証・人証・事証の三点を揃えてはじめて有罪を認定するという厳しい証拠採用基準を採ったことで、証拠不足に苦しんだのが実態である。先行裁判が積極的に取り扱わなかった細菌戦、化学戦、強制連行・強制労働、三光作戦、組織的性暴力、植民地支配などについても犯罪調査と証拠収集が行われ、処罰を下した。また、供述書を書き上げるまでの更生教育と自己反省に4年以上の時間を掛けた。暴行・暴言のない人道主義的な待遇のなかで、開廷までに戦犯全員が詳細な自筆供述書を書き上げた。
第二に「処罰の根拠法」。ニュルンベルク裁判および東京裁判では、国際軍事裁判所憲章に記されたA・B・C級の戦争犯罪をもとに裁いた。BC級戦犯裁判では、実施国によって国際法と国内法の取り扱いは多様だった。米国による裁判は、A・B・C級の国際基準を適用した。英国、豪州やオランダ、ソ連は主に各国の国内法によって裁いた。中華民国と独立後のフィリピンでは、国際法と国内法の双方に依拠した。
新中国:当時の中国は、旧社会の法を人民中心の民主的な法体系へと全面的に策定し直す過程にあった。そのため、国内法の反革命処罰条例よりも、A・B・C級の国際法に主に依拠した。ただし、被侵略国としては西洋諸国主導で構築されてきた国際法には限界があり、独自の修正を加える必要があった。たとえば、植民地支配が犯罪化されていなかったため、A級犯罪の概念を拡張する形で適用した。また、新興国家のため国際法の批准手続きなどにも厳密な検討が重ねられた。こうした法的整合性を厳格に追求する上では、東京裁判で中国代表判事を務めた梅汝璈が法律顧問として貢献した。最終的に立法府である全人代での「決定」という形(いわゆる手続法)で根拠法を制定した。新中国の戦犯裁判には法的根拠がない、あるいは国内法に依拠したというネガティブな評価は事実に反しているだけでなく、二重基準に基づいた評価であることが確認できる。
第三に「公判」。東京裁判は公判から判決まで2年半と長期にわたったが、BC級戦犯裁判については短期間で終結するケースが多かった。イギリス裁判では、被告が有罪を認めた場合には事実審理を行わず、直ちに判決が下されるほどだった。英米法が採用されている諸国では、法廷で検察官と弁護人が証拠をめぐって陳述を交わす法廷運営となる。東京裁判もこの方式だった。大陸法で裁判が運営されるフランスなどでは、予審段階で取り調べを行い、検事が起訴相当と判断した場合に公判が開かれた。各国の裁判運営の伝統が反映され、判決文に量刑の算定根拠が明記されないケースも珍しくなかった。
新中国:近代中国は大陸法を採用していたため、新中国の裁判でも予審で被告に起訴状(日本語訳あり)が提示され、弁護人との打ち合わせを踏まえて、法廷に臨んだ。法廷は裁判長主導で審理が進められ、判決まで1~3週間を要した。訴状、判決文は詳細だが、根拠法との照合、量刑の算定根拠に関する記述は明瞭ではない。開廷前に時間を掛けた取り調べが完了しており、起訴状の作成と量刑の検討を終えて開廷を迎えた。事前に量刑が決定されているのは「劇場型裁判」だという評価は、英米法の裁判運営を基準にした筋違いの批判といえる。
第四に「判決」。東京裁判は25名の対象者のうち死刑7名、無期刑16名と厳罰が下された。BC級戦犯裁判については、新中国とソ連の裁判を除くと、合計5700人の被告のうち930人あまりに死刑が執行され、3400人あまりに無期・有期刑が下された。
新中国:1062名の戦犯のうち45名に懲役刑が下され、1017名を起訴免除処分で釈放した。起訴免除は、無罪や証拠不十分を意味する不起訴とは異なる。有罪を認定したが、認罪と反省を考慮してそれ以上の処罰を科さないという政治的判断が加味された法的措置だった。新中国の戦犯裁判には「政治的」という揶揄が付きまとってきたが、上述の通り東京裁判なども政治に大きく翻弄された。問うべきは政治性の中身である。
以上のように「共通の比較分析軸」からみると、新中国の戦犯裁判に「特徴」はあっても「逸脱」が見られるわけではないことが分かる。むしろ、“罪を裁く”という本来の目的からすれば徹底している点も多い。裁くべき犯罪行為や戦犯個人を政治的判断で免責するという、他の裁判でしばしば見られた局面は確認できない。
長期にわたって戦犯を拘留し、罪に向き合う反省教育を行ったことについても、人権侵害だとか、「洗脳」「取引」といった批判がある。比較戦犯裁判研究は、各国の戦犯裁判には固有の歴史や文化が反映されていることを指摘している。新中国についていえば、建国期の中国全体で広く行われていた学習運動や自己改造運動という歴史的文脈を視野に入れる必要がある。日本人戦犯に対しても、戦後の「人民の社会」の担い手になるための自己批判が求められたのである。
21世紀に入って、植民地支配や奴隷貿易などを戦争犯罪と規定する法的努力が行われている。ただ、実現しても犯罪規模の巨大さを考えれば、罪に見合う刑罰は存在しない。当事者も既に死去している。加害国やその国民が罪を認めて反省を示すことが、かろうじて処罰の代替になりうる。その意味で、新中国の裁判で戦犯たちが全員認罪していた事実は、歴史和解に現実的可能性を付与する。
人種隔離政策が長く続いた南アフリカでは、その撤廃後の社会再建の取り組みとして真実和解委員会が設けられた。そこでは政治的暴力の全面自供と引き換えに、加害者は免責された。これにより、被害者遺族は事実の一端を知ることができた。ただ、文字通り「取引」として自供した加害者には認罪も改心も伴わない。新中国の戦犯裁判が処罰と反省を同時に追求することで、狭い範囲とはいえ戦後和解を実現できた経験を今こそ活かす必要がある。戦争犯罪人を平和の担い手へと再生させた本質的な取り組みは、世界が直面する課題への中国の平和的貢献である。
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