青海省が歩んだ貧困脱却の道
袁舒=文・写真
現地に適した産業を発展
山奥のロッジ
青海・チベット高原と黄土高原の中間地帯、標高3100㍍の山間部に小さな木造家屋が点々と建ち並んでいる。ここは夏になると黄色い野花があちこちで咲き誇り、うっそうとしたトウヒ林の中からは時折子どもたちの笑い声が聞こえてくる。まるでおとぎ話の世界だ。
ここは青海省の省都である西寧市の管轄下にある大通回族トゥー(土)族自治県朔北チベット族郷の東至溝村。標高が高いために気候条件も厳しく、霜害、ひょう、干ばつなどが多発し、交通も不便で、昔から「辺ぴ・貧困・無秩序」という苦しい状況に置かれてきた。そのため、ここは貧困脱却堅塁攻略戦の重点地域でもあった。
同郷は交通の便は良くないが、良質な天然林がある。ここは標高が高いために夏が短い。青海省の人々は夏になると、キャンプやピクニックをして自然を満喫するのが好きだ。西寧市と貧困脱却のペアリング支援の提携を結んでいる南京市はこの優位性のある資源を利用して、東至溝村と隣の辺麻溝村を農村観光の中心スポットとして開発しようと試みた。
南京市は2017年に670万元の資金を投じて、二つの村一帯を花見スポットとして開発し、39軒の戸建型宿泊施設「林谷小木屋」を建設した。宿泊施設と花見スポットの収益は、年末に、実際に投じた労働力に準じて周辺の10の村の村民に割り当てられる。昨年の収入は全部で45万元で、そのうち東至溝村に9万、辺麻溝村に6万、その他八つの村にそれぞれ1万元が配られた。残りの収入は郷の建設資金として使われ、村民への見舞金やインフラ整備、公共性のある雇用の創出など臨機応変に運用される。的確な貧困救済活動を担当する同郷の劉文睿副郷長(28)は、「村としては、資金がなければ全く発展が見込めないのが現状です。昨年の東至溝村の収入は17万元でした。この資金で村民たちのためにもっとたくさんのサポートができます」と語る。
林谷小木屋は一戸一戸に家のような温もりが感じられる宿泊施設で、窓からは山を眺めることができ、ドアの外からはせせらぎが聞こえてくる。室内にはベッドルームとバスルーム以外にも、リビングとオープンキッチンがついており、自炊ができる。自炊をしない観光客は、数百㍍山を下りたところにある「農家院」(農家生活を体験できる民宿兼レストラン)で食事を取ることができる。このような需要があって、村には多くの農家院ができた。
夕暮れ時の林谷小木屋。小川のせせらぎを耳に、遠くで炊煙が立つのを眺めながら時間を過ごせる
料理人にスキルアップ
林谷小木屋を出て、整備されたアスファルトの道に沿って山を下ると、一軒の農家院の前に着いた。庭先では、白い子犬が日なたぼっこをしながら気持ち良さそうに昼寝をしている。中に入ると、太陽の光に満ちた木造の家屋は広々としていて、テーブルと椅子が数組置いてあり、部屋はきれいに掃除されている。
中から出てきたチベット族の女性が、「お掛けになってください」と椅子を勧める。彼女はこの家の主、馬徳蓮さん(53)だ。馬さんは夫の李迎龍さんと共にこの農家院を経営している。娘1人と息子1人の4人家族だ。はたから見れば幸せそうな一家だが、かつては貧困のために苦しい生活を送っていた。
馬さん一家が貧困世帯に認定されたのは15年だ。以前、彼女たちは多くの村民たちと同じように、ジャガイモやチンゲンサイ、小麦の栽培で生計を立てていたが、厳しい気象条件による不作のために貧困から抜け出せずにいた。そして、学校に通う子どもたちの面倒を見るために、他の村民のように出稼ぎに行くこともできず、山奥に「取り残された」状態になってしまった。
同郷は15年から的確な貧困救済を開始した。まず行ったのは、村民に自分たちの仕事を持たせることだった。劉副郷長は、「自分の仕事を持つのは村民にとってとても大事なことです。以前は仕事がなく、成長目標も政府の支援もない状態だったので、村民は『どうせ出稼ぎに行ってももうからないし、商売を始めるお金なんてない』と、貧困の悪循環に陥っていました」と振り返る。そこで、郷は1人当たり5400元分の補助を現物支給して、運輸、農村観光、栽培、畜産業の発展を促した。畜産業を選んだ人には牛、運輸業を選んだ人には三輪バイクが給付された。
最初、馬さん一家は畜産業を選び、郷から2頭の牛をもらった。毎日山に放牧した牛はすくすくと育ち、たくさん搾乳でき、多くの子牛を生んだため、馬さん一家の生活は良くなり始めた。そして子どもたちの大学の学費も国の政策によって減免され、毎年6000元の生活補助金を受け取ることもできて、家計の負担が一気に軽減された。だがその2年後、夫の李さんが糖尿病を患ってしまい、山へ放牧に行けなくなった。その時、郷が農村観光の開発を始めたので、この流れに乗ってみようと、馬さん一家は飼っていた牛を売り、そのお金で家をリフォームして農家院を立ち上げた。
郷が手配した職業訓練を受けた後、馬さんはここで料理人になった。夫が主に給仕や会計の仕事をし、他に若いウエーターも1人雇っている。林谷小木屋の人気が上がるにつれて、農家院もどんどん繁盛していった。観光客の来店は6~8月に集中し、ある時は1日に100人ものお客さんをもてなし、約5000元の収入が得られた。農家院を経営するだけで、年間4万元の純利益になる。
「朝の5時に起きて下ごしらえを始めてから、午後の5時まで休む暇もありません」と、馬さんは自分の一日をこのように語る。「疲れますけど、その分多く稼げるのでうれしいです」と話す馬さんの目は希望にあふれていた。村の共同組合に参加している馬さん夫婦には、観光シーズン以外にも他の収入源がある。こうすることで生活に対する幸福感も安心感も大いに増したという。
馬さん夫婦が大切に育てた娘は大学卒業後、西寧市で保険の仕事をしており、今年大学を卒業する息子は風力発電に関する特許を取得しているため3社の国有企業から内定をもらっている。2人ともこれからその明るい未来に向けて突き進んでいくことだろう。
馬徳蓮さん
エコツーリズムで雇用創出
草原から見る天の川
青海湖の穏やかな水面が白い雲を映し、広々とした高山の草原はそこに立つ人々の心を清々しくさせる。青海湖を囲む長い道に沿って、四角い小屋が建ち並び、風になびく色とりどりのタルチョ(お経を書いた旗)やヤクテント(ヤクの毛で織られたテント)が目に映る。敷地内に入ると、元気な青年が出迎えてくれた。
「タシデレ!」(チベット語で祝福をささげる意味の言葉)
彼は「文迦牧場」責任者のチベット族のリチェジュンペさん。文迦牧場は青海省の省都西寧市から100㌔離れた海北チベット族自治州海晏県三角城鎮の海峰村にあり、草原の牧畜文化を体験できる観光スポットだ。独特の自然環境により、ここでは草原、砂漠、湖の三つの景観が楽しめる。
文迦牧場では、きれいに並んだ四角い小屋とチベット風のテントが太陽の光に照らされてキラキラ光り、七色のタルチョが風に舞う。モダンと伝統が混じり合うペイントが荘厳さの中に若者受けする雰囲気を醸し出している。3年前まで、ここはただ広い草原でしかなく、リチェジュンペさんも大学を卒業したばかりの若者だった。
リチェジュンペさんは海峰村出身で、小さい頃は近くの山で牛を放牧していた。2017年に大学を卒業した後、古里に戻り、観光経営の知識を生かして同級生と一緒に現地で観光事業を立ち上げた。
初めは牧畜民のテントを使って小規模なチームビルディング研修をサポートしていただけだったが、評判が非常に良かったため、顧客のニーズに応えてバーベキューやキャンプ、乗馬などのサービスを追加した。大自然と触れ合うことのできるこれらのレクリエーションは大きな人気を呼び、観光客がここで宿泊するニーズも大きくなっていった。「青海省は一日の気温差が大きく、バスルームや暖房は宿泊施設には欠かせません」とリチェジュンペさん。そこで彼は、床暖房、エアコン、ウエットゾーンとドライゾーンを分けたバスルームを備えた戸建型宿泊施設を草原に建てた。
これらの宿泊施設のデザインは独特で、正方形のブロックのようだ。また、三面の壁と屋根は透明なガラスでできている。「これが今一番人気のスタールームです。文迦牧場は光害がないので、各家の屋根にある天窓からは天の川を見ることができるんです」とリチェジュンペさんは紹介する。文迦牧場はこのような「スタールーム」が380棟あるほか、ヤクテント体験エリア、レストラン、チベット文化体験センター、キャンプファイヤーエリア、乗馬エリア、オフロードバイクコース、タンカ展示場などを備えており、伝統をベースにしながらもそれに縛られないエコ・文化観光地となっている。
「起業して3年になります。今の文迦牧場を見ていると、当時の自分の選択を誇らしく思います。最初、両親は私が起業することに反対していました。私が大学を卒業したら公務員になることを望んでいましたからね。安定した仕事に就いてほしかったのでしょう。でも私がしたことは一番リスクのあることでした」としみじみ語る。当初は借金をして起業していたが、友達のサポートと、海晏県と海北州政府の支援も加わり、文迦牧場はスタールーム20棟とテント80張りから今日の規模にまで成長した。観光シーズンになると、文迦牧場は毎日50の団体旅行グループを受け付け、一日最高で3000人余りの観光客を接待する。
スタールームの外観(写真提供・リチェジュンペ)
スタールームの中(写真提供・リチェジュンペ)
自然と住民を守る
文迦牧場ができて3年、ここはまさに草原が育んだスター企業であり、地元の人々の誇りでもある。この3年間、リチェジュンペさんはここで生活する人々に常に寄り添ってきた。「文迦とはチベット語で守るという意味です。私は文迦牧場がこの草原を守り、ここに生きる人々を守る存在であってほしいと思っています。私は貧困地域で育ちました。だから今はここにいるみんなと一緒に裕福な生活を追求していこうと思っています。そのために、県ともいろいろ話し合って案を考えました」。遊歩道を歩きながら、リチェジュンペさんは自分の抱負を語った。
文迦牧場は現在、海北文迦文化観光発展有限公司によって経営されている。リチェジュンペさんが正式に会社を立ち上げたのは19年4月。会社を設立して以来、彼は周辺の農民や牧畜民、特に貧困世帯のために積極的に雇用を創出してきた。海峰村はかつて貧困村として知られ、村民の多くは農業や放牧に携わってきたが、自然的条件の制約により、農業生産量が低く、牧畜も従来のやり方に頼った分散した放牧をしていたため利益が少なかった。彼は村民たちの収入を向上させようと、彼らをレストラン、宿泊施設、アトラクションのスタッフや清掃、警備などの職に就かせた。そのおかげで、技術訓練を受け、ライセンスを取得した従業員は平均3150元の月給と社会保険への加入が保障された。そして19年に乗馬、オフロードバイク体験などのサービスを始めてからは、農家20世帯を招致し、各家ごとに馬2頭とバイク2台を給付して、その分の収入の半分を農家に支給している。これで農家1世帯につき3万元の増収が実現した。そのほかにも、文迦牧場で提供する羊肉、ヤク肉、ヨーグルトなどは地元の農家から仕入れており、文迦牧場の敷地も収用したものではなく、1ムー(約0・067㌶)200元、20年契約で牧畜民から借りている。
観光スポットとして土地を開発する際、リチェジュンペさんは環境保護に気を配っている。文迦牧場がある草原は冬季の牧草地で、降水量が多いため、牧草の質が良い。持続可能で健康的なエコツーリズムの産業チェーンを形成するために、季節差を利用して、夏は観光開発を推進し、冬は牧畜を継続して、牧草地本来の価値を最大限に引き出す試みをしている。文迦牧場では建物を全て高床式にし、鉄筋やコンクリートなどの重い材料を一切使わず、放牧地を傷つけるような基礎工事もしない。「私たちはこの大自然の恩恵を受けるとともに、大自然を守る存在でもあります。そして私はこの草原を守るだけでなく、草原の上に暮らす人々をも守っていきたいのです」。リチェジュンペさんの言葉からこの土地への深い愛が伝わってきた。
起業パートナーたちと「スタールーム」建設の視察をするリチェジュンペさん(中央)(写真提供・リチェジュンペ)
少数民族の手工芸を普及
太陽を縫い上げる
広々とした道路に整然としたガードレール、きれいに手入れされた緑地帯。道の片側には山がそびえ立ち、一本の険しい小道が山間を縫っている。もう片側には新しい村の入り口が見える。ここは青海省海東市互助トゥー族自治県にある班彦新村だ。ここの住人は皆、2016年に向かいの山から引っ越してきた。
16年まで、ここの村民たちは道をはさんだ向かいにある山間で暮らしていた。辺ぴな山奥での生活は非常に不便で、交通、用水、医療、就学、仕事、結婚の六つの面での困難が地元の人たちを重度の貧困へ陥れた。「用水確保が困難なことが若者の出稼ぎを制限しているんです。高齢者が家に一人でいると飲み水の確保ができないため、若者は家に残って高齢者のために水をくんであげなければなりませんでした」。村駐在幹部の李宝生さんは説明する。「山にはでこぼこの泥道しかなく、バイクさえ安定して走れません。人々の住む家も土作りで、家を建てるための整った平地すらないんです。各家の庭には大きな水がめが置いてあって、降った雨を蓄えて豚に飲ませていました」。李さんは言葉を詰まらせながら山での生活を振り返った。
山から移住後は村の水道、電気、道路が確保され、若者が安心して出稼ぎに行ける環境が整い、日中、若者の姿はほとんど見掛けなくなった。
班彦新村の入り口
半開きのドアから笑い声が聞こえてくる。約30平方㍍の部屋の中には中年の女性が15人ほど座っており、それぞれが刺しゅうのピースを手にして、楽しそうにおしゃべりしながら作業をしている。トゥー族には「盤繍」と呼ばれる伝統的な刺しゅう工芸がある。黒の綿布を裏地に使い、7色の絹糸と独特のステッチでカラフルな模様やトーテムを縫い上げる。同じ色の糸を2本使い、1本をベースに、もう1本はそれに巻きつけるように刺すことで出来上がった模様は小粒のぶどうの房のように重なり合った円となり、立体感のある仕上がりになる。盤繍のステッチは世界でも類を見ないものだ。少数民族の伝統を広め、それを村民たちの貧困脱却に結び付けようと、同村では盤繍の会社を設立し、村の女性たちをお針子さんとして雇っている。この笑いにあふれた部屋が班彦新村の盤繍工房だ。
お針子さんたちが刺しゅうする模様は皆同じもので、トゥー族で幸福と幸運を象徴する「太陽の花」だ。デザインと販売は会社が行う。お針子さんたちは毎朝8時に「出勤」し、夕方6時には「退社」する。これで1日20元の出勤手当てがもらえる。給料は歩合制で、1枚の刺しゅうが完成するたびに50元もらえる。1枚の刺しゅうを仕上げるのに約3日かかるので、1枚完成すると、50元プラス3日分の出勤手当て60元で合計110元の収入が得られる。このように、お針子さんは年間約1万元の収入を得ることができる。
「盤繍は母から習いました。この土地の女性はみんなできますよ。母が娘のために結婚式の衣装を一針一針刺しゅうしてあげるのが私たちの伝統なんです」とムディシンソさん(59)。この村には彼女のような熟練のお針子さんが145人いる。これまでに、同社はeコマースプラットフォームを通じて5万4000件以上の注文を受けており、その中には海外で販売されているものもあるという。
針に糸を通すムディシンソさん(右)とお針子さん
村に漂う酒の香り
「さあさあ、このお酒を召し上がって。私が造ったお酒なんです。口当たりが良くて、酔いませんよ」。呂有金さん(57)はお客さんを酒蔵に入れ、酒瓶を片手にこう勧めた。トゥー族の呂さんは16年に山から引っ越してきてから、村で蒸留酒の酒蔵を開いた。
呂さんの蒸留酒の製造技術は先祖伝来のものだといえる。村民が山に住んでいた頃、酒は数少ない娯楽としてよく飲まれていたが、酒を商品として売る人もいなければ、酒を買うお金もないので、みんな自家製造していた。「1970年代には祖母がお酒を造っていましたが、私が12歳の時に祖母が亡くなり、その後は母が酒造りをしていました。私の父は特にお酒が好きで毎日飲んでいたので、わが家は他の家よりも造る量が多かったんです。私も小さいころから家族がお酒を造るのを見ているうちに、製造方法などをなんとなく覚えるようになっていました」と呂さん。大人になると、家計を支えるために、2000年頃から自家製の蒸留酒を売り始めた。その頃には近所の人たちも自分で酒を造らなくなったので、呂さんの家に酒を買いに来る人が増えた。また、呂さんの酒は味が良いと評判で、徐々に人気になった。それでも、山奥に住んでいたために各種条件が整わず、造れる酒の量は年間数百㍑と限られており、2万元ほどの収入しか得られなかった。
「あの頃は不便でした。技術がないから大量生産はできませんでしたし、お酒を運送するのも大変でした」と呂さんは振り返る。山にいたころは機械を買うどころか工場を建てる余裕もなかったため、呂さんは自宅の庭で酒を造るしかなかった。酒の醸造には冷却が必要なため、山では天然の氷が手に入る冬にしか酒が造れない。そしてインフラも整備されていないため、客からの注文は全て電話で受け、呂さんがバイクに乗って麓のバス停まで酒を運び、そこで長距離バスの運転手にお金を払い、県か西寧市まで運んでもらっていた。
白いエプロンをつけた女性が部屋にやって来て、酒瓶を手に「もっと飲んでくださいね」と勧める。彼女は呂さんが雇った醸造専門の技師だ。「ここができてから酒の製造量がぐんと増えたので、私一人では手が回らなくなりました。近くに住む貧困世帯の方を雇って、一緒にやってもらってるんですよ。今は3人雇っています」と呂さんは言う。
山からの集団移住後、村は呂さんの産業を支援するために、7万元の無利子融資を提供した。呂さんはこの制度を利用して酒蔵を立ち上げ、設備を買い揃えた。蒸留酒造りは液体を発酵させる上で厳しい温度管理を要求され、春と秋に発酵させるのが一番理想的な味になる。ろ過や冷却の装置がそろったことで、呂さんは冬まで待たなくても酒を造ることができるようになり、酒の味もぐんと良くなった。
現在、呂さんの酒蔵では年間平均15㌔㍑の酒を造れるようになったが、それでも供給は需要に追い付いていない。0・5㍑20元の値段で計算すると、年収は60万元、純利益は10万元以上とのことだ。「昨年の一番大きな注文は、1万㍑で44万元。予約金も入っているので、後は酒が完成して発送するだけです。今は交通も物流もとても便利なので、お客さんが車で酒を受け取りに来るか、私が宅配便で送るかしています。だいたいのところへは2、3日で着きます」と言って呂さんは笑顔を見せた。
昼間の班彦新村では若者の姿はほとんど見掛けなくなり、お年寄りがのどかに日なたぼっこをしながらおしゃべりしている