早稲田大学で中国共産党の先駆者たちの足跡をたどる
于文=文 早稲田大学=写真提供

早稲田大学
今年は中国共産党創立105周年にあたる。その創立よりはるか以前、李大釗や陳独秀ら中国共産党の先駆者たちは早稲田大学に留学し、そこで社会主義思想に触れ、国を救う方法を模索した。この日本留学で得た経験は、彼らの思想形成に大きな影響を与え、後にマルクス主義を広め、党を創立して国を救うための重要な思想的基盤となった。

李大釗の学生証と授業料納付証
人材集まる早稲田の中国人留学生
早稲田大学歴史館は、李大釗の授業料納付証を今も残していた。さらに早大の中国人同窓会が寄贈した学生証には、李の氏名、住所、出身地、入学に関する情報がはっきりと記されていた。1913年の冬、李大釗は天津の北洋法政学堂を卒業した後、日本に留学し、東京のYMCAに寄宿、翌14年9月に早大の政治経済学部に入学した。

陳望道が翻訳した『共産党宣言』
革命家・翻訳家として知られる陳望道も1915年に日本へ留学し、早稲田大学や中央大学に学び、マルクス主義に触れた。20年には、上海で陳独秀とともにマルクス主義研究会や上海共産主義小組を組織した。同時に、彼が翻訳し、中国初の中国語全訳となった『共産党宣言』も出版された。
毛沢東に「農民運動の王」と称された農民運動指導者の彭湃は、早大で学んだ初期の中国人留学生の中では数少ない、学業を完全に終えて帰国した一人だった。1917年9月に早大生による社会運動団体の建設者同盟に加入した彭は、間もなく労働者同情会にも参加。20年10月には東京で赤心社を組織し、21年5月の帰国後はほどなくして中国社会主義青年団に加入した。
早稲田大学で学んだ早期中国人留学生の中には、こうした革命家だけでなく、多くの知識人や教育者も含まれていた。上述の3人のほかにも、ルソーの『社会契約論』を翻訳して中国に導入した楊廷棟や、福州で学校を立ち上げ、日本の東北侵略に反対した林長民、初期の北京大学などの高等教育機関で教壇に立った葛祖蘭、銭玄同、陳独秀らが挙げられる。後に中日友好を後押しし、国交正常化に大きく貢献した廖承志も早期留学組である。
20世紀初頭、中国人が日本に留学するのは、今のように簡単なことではなかった。公費留学でもない限り、経済的基盤、特に人脈がなければ、相当難しかったことは容易に想像がつく。数々の問題を乗り越えて留学を遂げた彼らは、なぜ東大や慶応ではなく早大を選んだのだろうか。かつて早稲田大学国際部東アジア部門長を務めた江正殷先生がその理由を語ってくれた。

早稲田大学清国留学生部規定
1882年に創立された早稲田大学は、学問の独立を全うし、学問の活用を効し、模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す。江さんによると、当時は日本でも権力者の子弟しか東大や慶応に行くことができなかったという。もちろん東大や慶応も志の高い人材の育成をモットーにしていたが、当時の社会、特に農村部においては多くの解決すべき問題を抱えており、優れた人材が必要だった。そこに着目した早大の創設者は「在野精神」を提唱、一定の経済的基盤を持つ家庭の子弟であれば誰でも入学できる教育機関の設立を図ったという。「つまり早大は、創立以来一貫して現実路線を歩む学校なのです。また、早大には『アジアは一つ、隣国同士助け合う』という価値観があり、甲午戦争後には清政府の近代教育強化の方針に積極的に応え、1905年に『学問は公共のものであり、一つの国と人に帰属すべきではない。さらに中国に隣接し、同じ黄色人種である我が国はかつて学問を中国に求め、その文字は今も我が国で使われている。古くから仲睦まじい関係だったわれわれの間では、互いの長所をもって短所を補うことは過去の恩に報いることであり、まさに文化を発揮すべきところでもある』を主旨とした、予科1年、本科2年、研究科1年の『清国留学生部』を設立した」という。
1905~10年の5年間に、早大は中国の派遣留学生2000人余りを受け入れ、日本で最も中国人留学生の人数が多い大学となった。中国に戻った学生の多くは学校を設立して教育に携わり、その弟子たちも自然と早大を留学の第一志望に選ぶようになった。「清国留学生部」が閉鎖された後も、早大は積極的に中国人留学生を受け入れ続け、特に政治経済学部は、真理を追求し救いを求める、志を持った若者たちを引きつけた。
社会主義で中国を救う道へ
では、李大釗らは早大で何に出会ったことで、「社会主義で中国を救う」という道を歩み始めたのだろうか。
早大キャンパスには、日本の社会主義運動の先駆者として知られる安部磯雄教授の銅像がある。安部教授の名は、早大野球部の創設者として早慶戦ファンには知られているだろう。経済学者としての安倍教授は、「国民の福祉のために闘う」と唱えていた。留学中の李大釗はその思想に大きく影響を受け、安部教授の家に出向いては教えを請うていたという。日本で社会主義運動を提唱していた先駆者の影響を受け、日本の友人を介して社会運動家の宮崎龍介や吉野作造らの有識者とも出会ったことも、李の将来の専攻や思想に大きく影響した。

早大キャンパスにある安部磯雄教授の銅像
1915年12月、袁世凱が皇帝を名乗った。翌16年の初夏、李大釗は早大での学業を中断し帰国、北京大学で教える合間に、早大で知り合った友人経由で早大の教授から送られた共産主義に関する大量の文献を読み漁った。早大時代の教授や友人たちは何度も北京を訪れ、李や北京大学の教師、学生らと意見を戦わせた。「厳密に言うと、李大釗は日本で共産主義を学んだとは言えません。しかし早大への留学で、日本の進歩的な思想に触れていたことは確かです。当時の日本は大正時代で、社会が比較的安定しており、自由民主の機運が高かったこと、早大がさまざまな人を迎える方針で、学生が種々の思想に触れられたことが影響しているでしょう。李大釗は『救国』か『救民』かの選択において、『生活が苦しい大衆を救う』という方向性を明確にしました。日本の友人に大量の本や文献をもらったことは、李がマルクス主義の観点や共産主義思想を広めるに当たって大きな支えになり、また前進するきっかけになったと思われます」と江さんは分析する。

李大釗を含む多くの中国人留学生が生活を共にした宿舎
「彭湃は李大釗よりも後に留学していますから、状況が多少異なります。1919年以降、社会主義思想が日本国内に広く伝わり、彭湃も大きく影響を受けたのです」と江さんは語る。
留学当初の彭湃は強烈な反日本帝国主義者で、中国人として国を救うことを第一に考えていたため、日本の警察のブラックリストにも名前が載っていた。18年末にはキリスト教思想に触れて博愛を主張し始めたが、後になって社会主義のさまざまな学説に触れたことで、キリスト教思想の限界に気付き、社会主義の研究に没頭するようになった。その後は建設者同盟と労働者同情会に加入し、社会主義の研究の傍ら労働者援助を行い、労働者の生活レベルの向上を図る活動を行った。こうして彭湃は広義での社会主義者となった。
1922年5月4日、帰国した彭湃は海豊の学生を組織し、メーデーの集会とデモを行った。それ以前の19年5月7日、五・四運動のニュースを東京で知った彭は中国青年の愛国運動を指示するデモに参加している。21年5月1日には約1万人が集まった上野公園の集会に参加、帰国後直ちに『双週評論』に日本のメーデーと労働者運動に関する文を発表した。ここからも、早大への留学が彭湃の革命運動に大きく影響したことが見て取れる。
初心のままに進む中国共産党
早大に学んだ中国革命の先駆者たちの足跡は、非常に感動的なものだった。「共産党とは、自分のふとんを半分に切って庶民に分け与える人々のことだ」という革命世代の言葉がある。その言葉通り、今までは「人民のより良い生活への憧れが、われわれの奮闘する目的である」と強調されてきたが、中国共産党第18回全国代表大会以降は、「人々がより良い生活を送れることが、われわれの仕事の出発点であり終着点である」という言葉に変わっている。中国共産党にとって「人民」は何よりも重く、「人民」こそが全てであり、「人民」の生活が幸せであることは、「国にとって最も大切なこと」なのだ。100年以上も昔、党の創設者たちは生活が苦しい大衆の解放と幸福の追求を出発点に、真理を探求し、国を救う方法を模索し続けた。中国共産党はこの100年にわたってさまざまな風雨を経験してきたが、その初心は今も変わらない。
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