生き証人として当時を振り返る
元東京銀行(現・三菱UFJ銀行)駐華総代表 大久保勲=文
私は1971年1月に日中覚書貿易事務所駐北京事務所に赴任した。同年4月にピンポン外交、7月のニクソン・ショック、10月の中国の国連復帰、翌年2月の米ニクソン大統領訪中、9月の日中国交正常化など、歴史に残る大きな出来事を、昨日のことのように思い出す。
71年4月10日に、米国の卓球チームが北京を訪問した。首都体育館で中米親善試合が行われ、私たち覚書事務所員も招待された。正面に「米国卓球チームを熱烈に歓迎する」と書いてあり、米国の選手にも惜しみない拍手が送られた。
7月9日〜11日、キッシンジャー米大統領特別補佐官が隠密裏に訪中し、周恩来総理と会談した。7月15日、ホワイトハウスは「ニクソン大統領は来年5月までに、周恩来総理の招待で北京を訪問する」と発表した。
10月26日、私が出勤すると間もなくNHKから電話があり、国連総会の模様を中継してくれた。中華人民共和国を中国の代表として国連参加を求める「アルバニア案」が可決され、中国の国連復帰が決まるころ、キッシンジャー米大統領特別補佐官は北京空港を飛び立った。
同日夜、北京飯店で、私はイラン大使館のナショナルデイパーティーに招待された。会場に周恩来総理が顔を見せると、どっとどよめきが起きた。周総理は、各テーブルを回って、だんだんと私のいるところに近づいてきた。まぶしい照明の中で私は自己紹介して、周総理と握手した。歴史の大きな流れを感じた。
周総理の会見は何度もあったが、最も忘れがたいのは71年12月20日の会見であった。会見が始まってしばらくたった時、周総理が「この中に銀行の人がいますね」と言われた。私がそっと手を挙げると、周総理が「もっと前にいらっしゃい」と言われ、前に進み出ると、私の席が用意され、マイクも置かれた。
会見は、ワシントンでの10カ国蔵相会議の多角的通貨調整で「1㌦=308円」が決まった直後であった。周総理は「中日貿易を人民元と日本円で直接決済してはどうか」と言われ、いくつか質問も受けた。「円元決済」協定は、72年8月、国交正常化1カ月前に東京銀行(現・三菱UFJ銀行)と中国銀行との間で合意に達した。
72年2月21日、米国のニクソン大統領が北京を訪問した。私は長安街の人民大会堂寄りの、米国のテレビ中継車のそばで待った。長い車列が速いスピードで通過した。その中に、大型の乗用車2台が星条旗をなびかせて走っていた。
1971年12月20日、周恩来総理との会見で握手をする筆者(写真提供・大久保勲)
9月25日午前11時半、田中角栄首相ら一行は北京空港に到着した。空港には周恩来総理、葉剣英中国共産党中央軍事委員会副主席、郭沫若全人代常務委員会副委員長らが出迎えた。私たち覚書事務所員もその場にいた。秋晴れの北京空港に日の丸が翻り、君が代が吹奏された。9月29日、「日中共同声明」が調印され、ついに日中国交正常化が実現した。
51年前、私の北京への赴任に先立ち、岡崎嘉平太先生は、中国を知ること、見ることを仕事の第一と心掛けよ、と言われた。日本にとって、隣国中国との歴史も、中国の重要性も、立場も欧米とは異なる。中国を十分に知る努力を続け、中国への対処を誤らないことは、難しい国際政局の中では、極めて重要だと改めて思う。