拳拳服膺 初心忘れるべからず

2022-09-19 12:36:52

メディアプロデューサー 渡邊満子=文


1972年9月25日、田中角栄首相、二階堂進官房長官、そして私の母方の祖父大平正芳は、国交正常化交渉のために北京へ旅立った。 

当時、中国との国交正常化に対しては反対の声は大きく、事実、命を狙うという脅迫状が届き、連日、右翼の街宣車が大平の自宅まで来て、スピーカーから大音量で罵声を浴びせた。 

あの日、羽田空港22番スポットには多くの見送りが詰め掛け、特に野党の幹部までもが顔を揃えたのは異例の出来事だった。 

大平が政治家になった時からいつか実現したいと考え続けていたこと……それこそが、日中の国交回復だった。大平は、まだ20代の大蔵官僚だった頃、日中戦争(中国側の呼称は抗日戦争)の最中に、中国の張家口に1年半ほど単身赴任をした経験があった。この時に垣間見た日本の軍部の横暴な振る舞いによって、中国の人々への贖罪意識が大平の中には芽生えたのだと思う。 

  

1979年12月6日、鄧小平副総理は来訪した大平正芳首相と会見した。会談の中で、鄧副総理は中国が目指す「小康社会」の構想を説明した(新華社)   

一時は決裂もやむなし……とまで困難を極めた交渉の一番の課題は「台湾問題」で「日華平和条約」(「日台条約」)をいつ、どんな形で解消するかであった。日華平和条約を解消すれば、日本国内の反対勢力に殺されるかもしれない。しかしその危険を冒さなければ中国との平和友好条約は成立しない……と大平は考えていた。 

やっとのことで交渉がまとまり、その後、両国は友好ムードに包まれた。しかし祖父は、中国から帰国する機内で「今は友好ムードでお祭り騒ぎだが、30年後40年後に中国が経済成長を果たした時には、必ず難しい問題が起こるだろうな……」とつぶやいたのを、秘書官として同行していた父・森田一は聞いていた。そして、事実この予言は的中してしまったのである。 

私の手元には、国交正常化交渉が終わって北京から上海へ向かう特別機の機内で撮影された写真が残されている。田中角栄首相が「周総理の飛行機に同乗して上海に行きたい」と意向を示したことにより、実現したことだ。北京―上海の短時間飛行とはいえ、中国の総理と日本の首脳が同じ飛行機で移動する……近年の国際情勢やリスクマネジメントでは、考えられないことではないだろうか。 

祝賀ムードに包まれた上海でのレセプションでは、田中首相は大平をねぎらう気持ちからか、周総理との乾杯の相手に大平を指名した。その結果、下戸の大平がテーブルの全員と乾杯して、10杯以上のマオタイ酒の杯を開けた。会場では何とか持ちこたえたが、宿舎の部屋に戻った途端に背広のままベットに倒れ込み、秘書官の父はネクタイを外すのが精一杯だったという。 

後に首相となった大平は、この時のことを次のように語った。「政治家の生きがいは、自分が国家民族と一体になっている、なろうとしている、と感ずる時。日中国交回復は、当時まあ党内大変だったが、これなんか振り返ってみて、政治家でよかったなと思います」と……。 

今年は、日中国交正常化50年の記念の年であると同時に、平成の両陛下のご訪中30年の記念の年であることを改めて記しておきたい。1992年10月23日から28日、日中の長い歴史の中で初めて天皇訪中が実現した。 

当時、国交正常化20周年を記念した両陛下のご訪中に対しても、保守派の反対の声は大きく、準備は困難を極めた。そして、関係者全員の熟慮と努力で実現したのだが、このことが国際社会で難しい立場にあった中国にとっては、大きな意義があったのではなかったのか……と、30年の時を経た今、感慨を新たにしている。  

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