50年前の原点に立ち返って
元文化部副部長 劉徳有=文
1964年秋、新中国第1陣の日本駐在記者として東京に派遣された私は、到着後、日本各地で盛り上がっていた日中友好のムードをつくづくと感じた。72年の田中角栄首相の訪中および中日国交正常化という歴史的偉業に触れる機会を得たのは、記者冥利に尽きると言ってよかろう。
歴史的握手
72年9月25日は忘れられない重要な日だ。この日に、当時の田中角栄首相と大平正芳外相、二階堂進官房長官一行は、日中国交正常化の交渉を行うため、空路北京に向かった。
7時50分ごろ、田中首相一行を乗せた車が空港のエプロンに入った。田中首相は見送りに来た中日両国の関係者と一人ずつ握手した後、専用機に向かって大またで歩き出した。8時ごろ、専用機が動き出したのを見届けて、すかさず新華社本社に国際電話をかけ、「専用機出発!」と報告。本社はフラッシュで、世界に向けて発信。後で知ったのだが、これが田中一行出発の最も速いニュースだったそうだ。
北京時間の午前11時30分、中日両国の国旗が掲げられた専用機が北京の空港に到着。その映像は日本のテレビでも生中継された。飛行機のタラップを降りた田中首相に周恩来総理が歩み寄り、両国首相は手と手を固く握り合った。これは戦後27年もの不正常な状態に両国が終止符を打った歴史的瞬間だった。
1972年9月27日、毛沢東主席は北京の中南海で田中角栄首相と会見した。毛主席は田中首相に『楚辞集注』を贈った(新華社)
当日、日本の各大手新聞の夕刊はいずれも1面トップでこの重大ニュースを報道した。『朝日新聞』の西村記者は感慨深げにこう書いた。「これは夢なのか。いや夢ではない。今、間違いなく日中両国首相の手が、かたく握られたのである。実際には、その時間は一分にも満たなかったはずであった……然るに、もっと長く長く感じられた……その長い歳月の間に流れた日中両国民の血が涙が、溢れる陽光の中をかげろうのように上っていく……」
困難な交渉
田中首相は北京に到着した当日の午後、周総理と会談を行った。日本のメディアの報道によると、困難な交渉の末、双方とも若干妥協したそうだ。
中日共同声明は第2項目で「日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する」とうたった後、第3項の、台湾が中国の領土であることを認めることについて、中日双方はそれぞれの立場を述べる表現を使った。すなわち、「中国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し……」である。
「日台条約」について、日本側は次のような処理を行った。大平外相は中日共同声明調印後の記者会見で、「日中国交正常化の結果として、日華平和条約(日台条約――筆者注)は、存続の意義を失い、終了したものとみとめられます」と発表し、また、「このポツダム宣言をわが国が承諾した経緯に照らせば、政府がポツダム宣言に基づく立場を堅持するという事は当然のことであります」と述べた。
これに対して、周総理は交渉で、日本は「言必信、行必果」(信を重んじ、言ったことは必ず守り、実行する)でなければならないと指摘し、その中国語を紙に書いて田中首相に見せた。田中首相は日本も似たような言葉があると応え、「信は万事の本」と書いた。
一時的ではあるが、双方にとって困難に直面したこともあった。田中首相が歓迎宴会のあいさつの中で述べた、「過去数十年間にわたって、日中関係は遺憾ながら不幸な経過をたどってまいりました。この間、わが国が中国国民に多大なご迷惑をお掛けしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります」という言葉に、周総理は顔を曇らせた。
翌日の会談で、周総理は厳粛な表情で田中首相にこう語った。「日本が過去のことに対し反省を示したのは非常に良いことですが、『多大なご迷惑をお掛けしました』(中国語では、『添了很大的麻煩』)という言葉は、われわれは受け入れられません。日本が起こした戦争によって、3000万人の中国人が被害を受け、命を落としました。このような行為は『迷惑』という言葉で覆い隠すことはできません」。田中首相は自分の表現に問題があったことに気付き、「ご迷惑をお掛けしました」という言葉は日本では謝罪の意を表すものであると弁明。しかし、周総理はこの表現を改めなければならないと提起し、田中首相はすぐ賛同の意を示した。
どのように改めればよいのか? 大平外相は考えに考えた結果、新たな文言を練り出した。周総理の同意を得て、日本は共同声明を発表する際、次のように表現を強めた。「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」
表現が重くなったが、日本側はやはり「謝罪」という言葉を避けた。それについて、大平外相は姫鵬飛外交部長にこう語った。「もし『謝罪』という言葉を共同声明に書き入れたら、自民党は分裂することになります。日本の複雑な状況を理解していただきたい」。ここから大平外相の苦慮の跡が読み取れる。
1972年9月、中日国交正常化は日本で大きく注目された(共同通信社)
国民の幸せと世界平和のために
田中首相の訪中期間、日本国民と東京にいる私たち記者は毎日わくわくしながらテレビを見つめていた。中日両国首相の会談や人民大会堂で開かれた歓迎宴の様子のほか、田中首相が故宮や万里の長城を参観したことや、毛沢東主席が中南海で田中首相と会見したことなども日本で報道された。
72年9月29日、東京時間の午前11時20分、人民大会堂で厳かに行われていた中日共同声明調印式の様子がテレビに映った。周恩来総理、姫鵬飛外交部長、田中角栄首相、大平正芳外相は、中日両国の国旗が並ぶ長いテーブルの前に座り、それぞれ筆で共同声明に署名した。その後、日本社会は喜びに浸っていた。同日、日本の各大手新聞の夕刊はいずれも全段抜きの見出しで、大きな写真を載せ、第1面から大きな紙面を割いて、中日関係史におけるこの大きな出来事を報道した。
『朝日新聞』の畠山武記者は記事の中でこう書いた。「日中間の国交正常化は、両国首相が繰り返し強調したように、『長い将来にわたる友好』を目指すものであり、その底には過去の不幸を再び繰り返すまいとの『永久不戦』の願いが込められている。これはまさに日中関係史上いまだかつてないことであり、また世界政治の流れを変えるだけの力を持っていよう」。そして将来を見越したかのようにこう書いた。「日中の国交が回復したが、これまで日中間の正常化を妨げていたものが全てなくなったわけではない。……日中の長い友好関係を築くためには、これまで正常化を妨げていたものを取り除く努力が必要であろう」。目下、日本の現実が証明しているように、畠山記者のこの見解は、遠い先々のことまで見通し、深い思慮を持ったものであると考える。
情勢が複雑に入り組んだ冷戦下、中日両国が国交正常化を実現できたのは、当時の両国指導者の先見性や果敢さ、英知と切り離すことはできない。まさに彼らは鋭く正しい判断力、度重なる困難を乗り越える勇気をもって、両国民の幸せと世界平和のために新しい局面を切り開いたのである。
新時代の歴史的使命
光陰矢の如し。国交が正常化してから、中日関係はいつの間にか半世紀がたった。この50年間、世界は過去百年間なかった大変動を経験してきた。中国は大きな変貌を遂げ、世界第2位の経済大国になった。日本の政治環境も大きく変わってきた。いかに新しい情勢の下で新時代の要求に合致する中日関係を構築するかは、両国が直面する新たな歴史的使命となっている。
50年来、中日関係は時には起伏があったが、全体的に見て前進している。特に国交正常化してからの40年間、両国関係は紆余曲折があったが、急速かつ長足の進歩を遂げ、大きな成果を上げた。これは両国が中日共同声明と中日平和友好条約を中核とする四つの政治文書の原則と精神を共に守ってきたたまものである。
中日は引っ越せない隣国同士として、経済や安全保障、発展の面でいくつかの問題と食い違いが生じたのは避けられない。これに対して、双方の唯一の正しい選択は、戦略的高みと長期的視点に立ち、食い違いをコントロールし、共通認識の拡大、友好協力、共同発展に向けて大いに取り組むことである。
今年6月、『永遠の隣人―中日国交正常化50周年記念写真展』が北京で開かれ、大勢の中国人観覧者が中日関係50年の発展の歴史を振り返った(写真・王衆一/人民中国)
1990年代以降、中日は東アジアの地域協力を後押しするプロセスに共に関わってきた。両方とも加盟国である地域的な包括的経済連携(RCEP)協定は今年1月1日に発効。今後、日本の「一帯一路」建設へのより積極的な参加が期待され、中国の環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP)加入も望まれている。それらが実現されれば、中日経済・貿易協力の裾野はさらに広がるだろう。中日の友好発展は、両国の共通利益に合致し、両国民の共通の願いでもあり、さらにいかなる力も変えられない時代の流れと歴史のすう勢である。
「国の交わりは民の相親しむに在り。国民間の深い友情は国家関係発展の源泉だ」。誰の目にも明らかなように、目まぐるしく変わる情勢の中で、中日両国民は依然として中日関係が重要だと広く認識しており、多くの人は相手国のことを知りたいと思い、しかも相手国の国民に友好的な感情を持っている。これこそ中日関係が困難に遭遇したときでも、両国関係の見通しの明るさに私たちが確信を持てる理由だ。
中日の各分野の交流の中で、青年交流の強化は、両国の相互理解を増進し、国民感情を改善するための効果的な手段である。日本の青年に大きな期待を寄せている習近平国家主席は、日本の青年・中島大地君に送った書簡の中で、次のように述べている。「中国と日本は一衣帯水の近隣であり、両国友好の基盤は民間にあります。両国人民友好の未来は青年の世代に希望がかかっています」
中日国交正常化50周年という大きな歴史的節目を迎えるに当たって、私たちが過去を振り返り、中日関係の将来を展望することは、極めて重要な現実的意義を持っている。今後、国際情勢がいかに変化しようとも、中日両国の平和・友好・協力という大きな方向性は決して変わってはならず、また変えられるものではない。私たちは中日両国民の感情を深め、双方の互恵協力を促し、両国の平和・友好、理解・相互信頼という心の懸け橋をより強固なものにするよう力を入れ、この橋を行き来する人々がますます増えていくようにし、より希望に満ちた中日友好関係の未来を築いていくべきではなかろうか。