後藤田正晴先生を偲ぶ
日中友好会館元中国代表理事 王泰平
中日国交正常化50周年を迎える際、私が日中友好会館で勤めた時期に亡くなられた名誉会長の後藤田正晴先生を思い出しました。2005年9月19日先生が亡くなられた時、私は北京出張中で、この悲報を聞き、まことに驚きました、これが本当だと信じたくありませんでした。
なぜなら、私の出張の直前に、中日関係史学会が北京から後藤田先生の訪中の可能性を尋ねていたので、彼を『新中国に貢献した日本人』という本の出版祝賀会に招待したいと思うからです。先生は招かれて喜んだが、仕方なくこう言いました。「体に問題がないと自覚していますが、医者から出国禁止令を出してくれました。北京側の厚意は受け取りました。林君(日中友好会館会長、前日中友好議員連盟会長の林義郎先生)に代表してもらいましょう。」
2005年の正月、後藤田先生は私に親書を書いてくれて、新春を祝ってくれました。手紙には、「年末に貴著『東京初旅--私の記者生涯』を頂き、ありがとうございました。私は新年の休み期間中にあなたの著作を拝読し、昔のことを思い出して、深く感銘を受けました。現在の両国関係は心配ですが、お互いに努力すれば、必ず好転すると確信しています。そして、良くなるべきだと思います」。手紙の中で、彼はまた私に中日友好協会の宋健会長と中国の友人たちに新春のあいさつを送るよう頼みました。先生の手紙は、行間に中日関係への珍重、関心と期待があふれており、両国関係に対する彼の確固たる信念を表していました。私はとても感動され、励まされました。そして、手紙の一つ一つの力強い文字が私に深い印象を与え、彼が非常に健康であると信じていました。
先生が亡くなる三カ月前、日中友好会館の会議に出席し、私たちと昼食を共にしました。その日、彼は杖を手にして使わず、足取りがしっかりしていて、とても元気に見えました。さらに感心したのは、頭の回転が速く、記憶力も抜群で、健谈をしていて、なかなか91歳の高齢者には見えませんでした。
食卓で私は度胸を持って多くの問題を提起し、先生に教えてもらいました。私が非常に満足しているのは、日本の政治についても、中日間の敏感な歴史問題についても、彼は非常に真剣に、率直に自分の見方を発表し、明確な観点を持ち、入念な見解を示したことです。
先生の話から、日本の著名な政治家として、社会活動家としての風貌をうかがい、彼が視野が広く、意志が強く、正直に話す、責任感強くことで世に知られてきた故を悟りました。
後藤田先生はその波乱万丈に満ちた生涯の中で、30年あまりの官僚経歴、20年あまりの政治家経歴、非凡な人生を過ごしました。1939年に東京大学を卒業した後、内務省に入り、自治省の官房長官、警察庁長官、内閣官房副長官などを歴任しました。1976年に従政し、7回連続で衆議院議員に当選し、自治大臣、内閣官房長官、総務庁長官、法務大臣および副総理などの要職を歴任しました。
後藤田先生は1996年に政界を引退した後も大活躍していました。彼の卓越した見識、憂国憂民の言動と国際バランス感覚は、日本社会、政界要人や行政官僚らの尊重と信頼を獲得し、彼は長い間日本社会で大きな影響力を持ち、国の重大な利益にかかわる問題について知恵を出し、対策を講じるブレーンや政府への建言の重鎮でした。
21世紀に入り、日本の内閣首相は交替し、内外政策を大きく調整されたので、国際国内の注目を集めていました。時勢の変化に直面して、後藤田先生は高齢にもかかわらず、権勢を恐れず、よく講演に出かけ、新聞雑誌で文章を発表し、テレビの評論番組に出席し、引き続き国家の利益にかかわる一連の重大な問題について、自分の意見を述べ、時局の弊を批判する卓説を大量に発表しました。
後藤田先生が中国と縁を結んだのは1972年の国交正常化の時でした。当時、田中角栄内閣の副官房長官であり、田中首相の中国訪問と国交正常化の順調な実現のために、舞台裏で多くの知られざる具体的な仕事をしました。
その歴史を思えば、後藤田先生はきっぱりと言いました。「日中国交回復は田中首相の英明な決定でした。田中内閣の功績が何かといえば、日中国交を回復したことだと思います…。そもそも、田中さんのような人がいなければ、そんな決断はできませんよ」。また、彼は「その後の国際情勢の変化の中で、日中国交正常化は日本に大きなメリットがあると感じました」と述べました。
30数年間、後藤田先生は続けて中日友好事業の発展のために尽力し、大量の功績と良いことを残されました。その中のひとつで、彼は日中友好会館の建設と発展に不滅の貢献をしました。
1980年、中日両国の指導者は、日々発展する中日友好交流のニーズに適応するために、両国政府の共同事業として東京都文京区にある偽満州国の中国人留学生寮の敷地を利用して、オフィスビル、美術館、会議室、日中学院、ホテル、中国人留学生寮を含む日中友好会館を建設することを合意しました。
後藤田先生は最初から日中友好会館の建設に積極的に参加していました。会館の初代会長で、周恩来総理から戦後中日関係「井戸掘り人」と呼ばれた古井喜実先生に協力して、資金調達のために苦労をいとわず奔走しました。その結果,両国政府の出資のほか,日本民間で30億円の寄付を募り、45億円の銀行融資に加え、100億円を費やした多機能施設が建設されました。
この日中友好会館の完成は、中日友好の新天地を開き、中外協力の新しいモデルを開拓しました。中日友好の象徴であるだけでなく、両国の民間友好交流を展開するプラットフォームであり、友好活動の拠点であります。中日間の相互理解を促進し、両国人民間の友好交流と協力を促進し、互いの友好感情を増進するために大きな役割を果たしています。
1994年3月、後藤田先生は日中友好会館会長を務めました。会長を務めた10年間、彼は日中関係の重視と日中友好の確固たる信念から、会館を指導して積極的に業務を展開し、経済、文化、人員の交流と協力分野で、中国学術界の歴史研究を援助するなどで、大量の実務、良いことを行い、中国政府と民間各界から高い評価を得て、中日友好協会から「友好の使者」と称えられました。彼の指導のもとで、日中友好会館は中国文化部から「文化交流功労賞」授与されました。
中日両国人民の世代の友好を実現するために、後藤田先生は特に両国の青少年の交流を大切にしており、彼が会長する間、会館は毎年大量の人力と物力を費やし、中国の高校生達の来訪と教育界の人士相互訪問を接待しました。
2003年に日中友好会館の名誉会長になってからも、会館の仕事に関心を持ち続け、中日友好事業に力を注ぎ続けていました。2004年10月、90歳の高齢にもかかわらず、夫人や息子ら親族と日中友好会館の責任者に伴われて、再び北京へ訪問しました。国家指導者賈慶林と唐家璇らとの会見では、後藤田先生は今後日中関係の改善と発展に専念する意志を表明しました。両国の関係について、彼は今の状況を少し憂慮を示しながらも、両国関係の前途については自信に満ちていました。「私が訪中するのは今回で最後かもしれません。だから、私は若者を連れてきて紹介します。両国の友好関係はこれからも代々伝わります」としみじみと語りました。
その間,先生は中国政府の招待に応じて清華大学で講演しました。活力に溢れる若い学生達を見て,彼はとてもうれしかったです。先生は日中関係について「過去を否定しない、現在のさまざまな食い違いを隠さない、両国が協力して未来志向の新しい関係を構築できると信じている」という3つの基本的な主張を述べました。
また、人々が普遍的に関心を持っている台湾問題、靖国神社問題、日本の対中経済協力問題などについて、1時間以上にわたって一気に話し、教師と学生たちから熱烈な歓迎を受けました。
講演では、「台湾問題は中国の内政であり、日本は台湾との関係をどのように処理すべきか、1972年に国交を回復した際には、明確な規定があった」と強調していました。
靖国神社問題については「小泉首相が参拝して以来、日中間の国民感情の悪化を招いている」と指摘し、「小泉は個人的な気持ちとして参拝したというが、個人的な気持ちというものは一国の首相の立場と混同できない」との見解でした。「小泉首相の考えには賛成できない」と言い、また、「靖国神社参拝が外交問題になったのは、靖国神社が極東軍事法廷で判定されたA級戦犯に合祀されたからだ」と述べ、「国際道義から出発し、慰霊施設を新設するか、A級戦犯のリストを靖国神社から外すか」と主張しました。
経済協力については、「環境対策支援は中国の利益になるだけでなく、日本にとっても重要だ」として、「中国への開発援助(ODA)をやめるという日本の一部の政治家の主張には賛成できない」とし、「継続すべきだ」との考えを明らかにしました。
講演では特に、「中長期的な視点で日中関係を考える際に大切なのは、青少年に正しい教育を行うことがも最も重要だ」と強調しました。「そのためには、青少年の交流を強化しなければならないです。中国のことわざにあるように『十年育木、百年樹人』は将来のことのように見えますが、代々の友好を実現するには人材を育てることが最大の近道である」と述べました。
後藤田先生は日中関係を遠く見て、深く考えていました。彼は同じ講演で、「日中両国は手を携えて、日中広場を構築することができ、アジア広場を構築することができ、つまりアジアは一極になることができます。米国が独占しようとするのは不可能であり、世界は今後しばらく多極化局面になるでしょう。この多極化の構図の中で、強力な一極はアジアであり、日中両国は協力してこの極を構築しなければならない」と言いました。
これに関連して「アジアの中での日中関係を重視しなければならない」と強調し、日米中の三角関係において「2カ国で一国に対処したり、一国で2カ国を敵に回したりする愚かなやり方は、望ましくない」との考えを示されました。
これは持論で、多くの場面で繰り返し語って来ました。「外交は国家の命運にかかわり、戦略的な高みから熟考して実行しなければならない」と繰り返し強調しました。「今の日本外交は戦略的思考が欠如している」と公然と批判しました。
非常に残念なことに、中日関係が国交正常化以来最も困難な時期に、後藤田さんが永遠に去ってしまったことは、中日友好事業の大きな損失と言わざるを得ないです。しかし、智者は死なず、賢者は不朽、人々は後藤田先生のことを忘れることがありません。
(翻訳者: 同志社国際高等学校3年生 松村伶)
人民中国インターネット版 2022年5月27日