90年前の道程を再体験(2)現地で歴史に触れる

2026-10-21 14:21:00

1934年10月から36年10月にかけて、革命の力を温存し、民族再生の希望を追い求めるため、中国工農紅軍は人類史に刻まれる戦略的大移動――長征を行った。2年に及ぶ長い遠征で紅軍は過酷な自然環境と幾重にも張り巡らされた包囲網に直面し、終わりの見えない餓えと寒さ、生死の試練を経験し、想像を絶する粘り強さと勇気によって人類史における偉大な快挙を達成した。この10以上の省をまたいだ約2万5000里(1万2500㌔、中央紅軍第一方面軍で最長の行程)の行軍は中国革命の運命を転換させたばかりか、後世に続く長征精神を残した。 

長征勝利90周年を記念し、中国外文局は「長征の道を共に歩む」と題した当時の紅軍の足跡をたどるイベントを行い、本誌が所属するアジア太平洋広報センターが甘粛省での取材と報道を担当した。1週間に及ぶ行程で、中国、米国、英国、日本、オランダ、ブラジル、ニュージーランドなど各国の専門家やメディア関係者、中国と縁の深い海外の人々、党史研究者、紅軍の子孫などで構成された国内外取材団が甘粛省の蘭州市、岷県、臘子口(迭部県にある峡谷)、哈達鋪鎮、会寧県などを訪れ、革命の旧跡から歴史を振り返り、農村や産業の最前線で発展を見つめ、数々の取材と交流を通じて、長征精神がどのように現代に示唆を与え、世界にどのような啓発をもたらすのかを探求した。 

 

岷県が長征精神の今日の生活への影響を物語っているとすれば、臘子口、哈達鋪鎮、そして会寧県は長征そのものの過酷さと偉大さを国内外のゲストにより直観的に理解させた。 

臘子口に向かう道は峡谷の間を通り、近づくほどに狭まり、山々が両側にそそり立つ。車を下りた取材団の大半が、ほぼ垂直の両側の崖を見上げた。 

1935年9月、中央紅軍は雪山や高地の湿地帯を越えて臘子口に到着した。前方には険しい地形を利用して守備隊が待ち構え、後方からは追撃部隊が迫っており、迅速に通路を切り開くことができなければ包囲される危険があった。紅軍の将兵は正面攻撃と側面からの迂回を組み合わせた戦術を採用し、崖をよじ登って守備隊を撃破し、長征における最後の難関を突破した。この戦闘は国民党軍が紅軍の北上する道を封鎖する計画を粉砕し、中央紅軍が甘南(甘粛省南部)の開けた地域に入り、さらに陝甘(陝西省、甘粛省)地域へ進軍するための道を切り開いた。 

戦役の旧跡に立つと、教科書にある「天然の要塞」という言葉が実感を帯びて迫ってくる。日本のメディア関係者で元NHKアナウンサーの木村知義氏は、「文字だけでは、長征の歴史がどこから来て、その精神的な力がどこから生まれたのかを真に理解するのは難しいです。記者は歴史が起きた場所に足を運び、山川や道路、遺跡を観察してこそ、当時の人々が直面した状況により近づくことができます」と語った。 

「彼らがこれほど多くの困難を乗り越え、ついにここまでたどり着いたことを本当に胸が熱くなります」と語る木村氏は、長征は単に追撃や包囲をかわし革命勢力を温存するための戦略的移動にとどまらず、理想と信念の遠征でもあったと考える。数々の危険を乗り越える中で紅軍は常に共通の目標と理想、希望を胸に抱き、支え合って前進したのだ。 

中国政府友誼賞受賞者でニュージーランド・中国友好協会元会長のデビッド・アンドリュー・ブロムウィッチ氏は紅軍の若き戦士「雲貴川」の物語に心打たれた。この十六、七歳のミャオ(苗)族の戦士の実名は資料にも残っていない。彼が雲南、貴州、四川を経た経歴から、戦友は彼を「雲貴川」と呼んだ。臘子口の両側に絶壁がそびえ立ち、敵軍がトーチカで隘路を固め、紅軍の行く手が塞がれるという窮地に「雲貴川」は自ら志願し、長竿と鉄鉤で崖をよじ登って迂回うかいし、敵の背後から奇襲する打開策を提案した。小柄な彼は仲間たちが結び合わせた脚絆製の綱と鉄鈎のついた竹竿を持ち、崖の割れ目に鈎を引っ掛け、垂直に近い断崖を少しずつ上がり、綱を垂らして戦友たちを敵の背後に迂回させ、主力と連携して封鎖を突破した。臘子口戦役の勝利は勇気と責任を体現しているのみならず、背後の部隊のために犠牲をいとわず道を切り開くことを意味しているとブロムウィッチ氏は見る。「過去の記憶は次第に色あせていくかもしれませんが、先人が共通の目標のために果たした犠牲は今日においても変わらず深い意味を持っています」 

臘子口を突破した紅軍は哈達鋪に到着した。人家がまばらで物資が欠乏している雪山・高地の湿地帯と比べ、当時の哈達鋪は交易が盛んで、食糧や物資が十分にあった。紅軍はここで食糧、塩、医薬品を補充するとともにけが人を治療し、部隊を休ませた。このことから哈達鋪は長征途中の「給油所」と称されている。 

紅軍はここでもう一つの補給を獲得した――新聞紙だ。これが長征の行く末を左右した。 

哈達鋪の紅軍長征記念館や紅軍街で、新中国が初めて軍階を授与した際に中将となった梁興初の息子の梁暁源氏は父親が偵察任務を遂行した話を語った。当時紅一軍団偵察連長(中隊長に相当)だった梁興初は、命令に従い部隊を率いて哈達鋪に入り、敵情を探り物資を調達した。出発に際し毛沢東主席から、「直近の新聞や雑誌を何とか探し出し、党中央に『精神的食糧』を持ち帰るように」とわざわざ指示されたという。偵察連は哈達鋪に入ってから新聞をまとめて手に入れたが、その中にあった一枚の『大公報』に、陝北(陝西省北部)の紅軍と革命根拠地に関するニュースが掲載されていた。情報が遮断され、進むべき道がまだ明確でなかった長征の途上で、これらの一見何気ない新聞は党中央が情勢を判断し、次の行軍の方向を選択する上で重要な参考資料となった。 

臘子口は「進み続けられるかどうか」の問題を解決し、哈達鋪はさらに一歩踏み込んで「どこに進むか」の問題に答えた。最終的に、中央紅軍第一、二、四方面軍は会寧と将台堡(現在は寧夏回族自治区に属する)で成功裏に合流を遂げた。異なる出発地、異なる進路の紅軍部隊は最終的に共通の理念と信念によって大合流を成し遂げた。 

会寧県の農村での取材で、中国政府友誼賞受賞者で中国外文局アジア太平洋広報センターのブラジル人専門家ラファエル・エンリケ・ゼルベト氏は村民一家から手厚いもてなしを受けた。その家の壁に貼られている家族写真の多くが革命遺跡の前で撮影されたものだと気付いた彼は、「長征精神は絶えることなく受け継がれ、一度もこの甘粛の地を離れていません。そして今なお、より良い暮らしを築こうと努力する人々を、力強く励まし続けています」と述べた。 

人民中国インターネット版

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