文化が融合し共生した都
黄麗巍=文
莫高窟の仏教芸術や蔵経洞の文物に見られるような敦煌文化は、約2000年にわたって受け継がれてきた。現存するものとしては世界最大規模であり、最も長く続き、最も豊かな内容を持ち、最も完全な保存状態を誇る、まさに芸術の宝庫と言える。中国文化にインド、ギリシャ、ペルシャなど国外の文化が融合し結晶となった敦煌文化は、世界文明の歴史にさんぜんと輝く明珠であり、古代中国の各民族の政治、経済、軍事、文化、芸術を研究する上でも、貴重な史料となっている。
2000年以上の時を経るうちに、敦煌で何が起こったのだろうか。多様な民族はどのように共存していたのだろうか。中国と諸外国の文化は、なぜここで出会い融合したのだろうか。敦煌を訪れ、多様な文明が織りなす千年の対話に耳を傾けてみた。
千年かけ造られた壮大な石窟群
甘粛省敦煌市、安西県、粛北蒙古族自治県、玉門市などに点在する莫高窟、西千仏洞、楡林窟、東千仏洞、水峡口下洞子石窟、五個廟石窟、一個廟石窟、昌馬石窟の総称を「敦煌石窟」と呼ぶ。中でも莫高窟は規模が最も大きく、保存状態が最も良好な石窟群だ。
366年、敦煌を訪れた僧侶の楽僔は、鳴沙山の上に金光がさんさんと降り注ぎ、千仏が現れる光景を目にした。奇跡的な光景に深く感動した楽僔は、この地で壁を掘って窟を造り、禅を修めて仏の道を極める決意をした。これが敦煌莫高窟造営の始まりとなった。その後鳴沙山には、高僧たちの指導で伽藍(僧侶の修行処)が着々と築かれていった。十六国(304~439年)から元代(1271~1368年)にわたるおよそ1000年、11の王朝にわたる歳月をかけ、ある人は鑿と斧で、またある人は絵筆をとって、窟を造り続けた。こうしてできた見事な洞窟は実に735窟にのぼり、総面積4万5000平方㍍の壁画と2000を超える生き生きとした彩色塑像が後世に残された。
世界的に注目される芸術の殿堂・敦煌石窟は、古代文明の「博物館」でもあり、さまざまな時代の政治、経済、文化、民族、科学技術など、多種多様な生活のワンシーンが描かれている。それらの壁画や塑像に見られる往時の住居や建物、着衣、道具は、当時の人々の生活や喜怒哀楽のさまを、後世の私たちに教えてくれる。
世界文化遺産の選定基準は以下の6項目。
1 人間の創造的才能を表す傑作である。
2 ある時代、または特定の文化圏において、建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
3 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統または文明の存在を伝承する物証として、無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
4 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
5 ある一つの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態もしくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境との触れ合いを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)。
6 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
これらの基準は、文化遺産が普遍的な価値を持つかどうかを判断する際の重要な指針となっている。
1987年12月に開かれたユネスコの第11回総会で、莫高窟は世界文化遺産の全ての基準を満たしていると認定され、世界文化遺産リストに登録された。これまでのところ、世界で六つの基準を全て満たしている文化遺産は、敦煌の莫高窟とイタリアの名城ベネチアの2カ所のみだ。これは莫高窟が世界文明において際立った意義と普遍的な価値を持つ文化遺産であることを、十分に証明している。
栄華と隆盛を極めた文化の要衝
敦煌石窟の形成と繁栄は、古代シルクロードと切っても切れない関係にある。シルクロードは漢代に長安から西へ延び、河西回廊を経て敦煌に達した。敦煌で道は二手に分かれ、一つは北西に向かって玉門関を抜け、もう一つは南西に向かって陽関を通り、タクラマカン砂漠の縁をたどる。北ルートは天山山脈の南麓を、南ルートは崑崙山脈の北麓を進み、それぞれ葱嶺(現在のパミール高原)に至った。その後パミール高原を経由して道は三つに分かれ、欧州、中央アジア、南アジア、北アフリカなどの地へと通じた。
莫高窟第296窟の壁画『福田経変』(557~581年、北周)には、シルクロードの繁栄が描かれているが、橋を左側から渡ろうとする人々、橋の上の荷物を背に乗せた2頭の馬、橋の反対側のラクダを引きながら橋を渡ろうとする西域の商人、ラクダの背に積まれた大量の荷物という、まさに胡漢の商隊が道中で交差する瞬間を切り取ったもので、敦煌がシルクロードの要衝として果たしていた役割を如実に物語っている。
隋朝(581~618年)成立後、王朝は辺境政策と対外交流への積極的な姿勢を示すようになった。609年、西巡した隋の煬帝は張掖で北方の遊牧民族、西域、東北アジアの各政権、中央アジア各国の部族長や使節を招待し、隋朝の制作品の展示を行った。翌年、隋朝は洛陽市場の飲食店で盛大な宴席を設け、官員を派遣して胡商(西域の商人)を誘致し、貿易を行わせた。胡商が訪れた店は、歓迎の意を示すべく一席を設けた。こうした行いは隋朝の発達と富を表すもので、周辺の他民族や異国の商人を引き寄せ、シルクロードを経由して商人が中原に進出するための後押しとなった。
隋朝は西域への影響力を展開し、中西間の経済貿易と文化交流を促した。その後に続く唐朝(618~907年)は、隋朝が切り開いた基礎を受け継ぎ、かつ中華民族内部の交流と融合、中西文明の交流と相互理解を一層推し進めた。隋唐時代のシルクロードは、漢朝の南北二路から、南、中、北の三つのルートへと発展、これらのルートが交差して、縦横に交わる交通網を形成したことで、シルクロード貿易を新たな高みへと押し上げた。
中国の絹、陶磁器、紙などがシルクロード経由で次々と西方に伝わっていった頃、西方からは中国にはほとんどない、または非常に珍しい商品がもたらされた。それは例えばブドウ、ウマゴヤシ、チューリップなどの植物に始まり、ライオン、ヒョウ、西域の名馬などの動物、さらには金属の工芸品、琉璃やガラス、ウール、毛布、さまざまな装飾品などの精緻な工芸品も伝わっている。敦煌の壁画にはこれらの外からやってきた品々が多く描かれており、特に隋朝〜初唐間の彩塑や壁画には、ペルシャ風の図柄が多く見られる。菩薩の装束に連珠対鳥紋、連珠対獣紋、菱格獅鳳紋などが描かれ始めたのもこの頃だ。これらの文様はシルクロードを通じて文化的な交流が進んだことを示しており、異文化融合の痕跡ともなっている。
宗教世界と世俗の交わり
敦煌芸術は仏教思想や仏教信仰の表現手段であり、仏典の内容が非常に多く含まれている。つまり敦煌芸術を知ることで、内含する宗教思想をも知ることができるのだが、「仏教教義」という神秘のベールを一旦取り払ってみると、歴史の真の姿が見えてくる。
盛唐期に建てられた莫高窟第23窟には、雨の中で田畑を耕す壁画がある。そこには空が黒雲に覆われて大粒の雨滴が落ちる中、農夫がむちを振るって牛を駆り、懸命に耕作する様子が描かれている。一方、あぜ道で碗を手に食事をする父子を農婦が優しく見守る様子も描かれており、ここからは一家の楽しげな雰囲気が伝わってくる。この壁画は『法華経・薬草喩品』の一節を元としたもので、『法華経・薬草喩品』とは、衆生の悟りがそれぞれ異なるのを、種類や大きさが異なる薬草や樹木にたとえ、仏陀が衆生に平等で慈悲深く教えを説くさまを、「雨水」にたとえた経文だ。きっと画工は、人々になじみ深い生活の瞬間を切り取ることで、経文に込められた意図を表現したかったのだろう。1000年後を生きるわれわれにとっては、深遠な仏教思想を感じつつ、古代を生きた農民の生活をよりつまびらかに知ることができる作品となっている。
同じく盛唐期に建てられた莫高窟第33窟には、婚礼の場面を描いた絵画があり、これは当時敦煌地域で流行していた「入夫婚」(結婚式を女性側の家で行い、婚後も夫婦が女性側の家で暮らすこと)を表している。屋外には子孫繁栄を象徴する「百子帳」が設けられ、帳の中では父母や客人が端然と座り、盛装の新婦は立ち上がり拱手の礼を、新郎は地にひざまずき拝礼し、長輩に礼を尽くしている。注目すべきは、男性がひざまずき女性は立ったままという婚礼の形式が、男尊女卑に見られる伝統思想とは大きく異なっている点だ。中原文化と遊牧民族の婚礼形式が、敦煌地方で出会い融合していたことが、現代の私たちにもはっきりと理解できる。
敦煌地域における多民族の混住は、莫高窟に描かれた「供養をする人」の絵柄に見ることができ、そこには漢民族の高官や貴族に加え、異国の伝法僧、使者、商人、さらには一般労働者も登場する。第98窟の『于闐(ホータン)国王と王后供養像』などは、中原の儀礼が西域に影響を与えたことを示す好例だろう。この絵には冕旒をかぶり袞服をまとう于闐国王の李聖天が描かれているが、袞服に刺しゅうされているのは太陽、月、龍、獣の文様で、完全に漢民族の皇帝の装いなのだ。当時、西域の貴族が中原文化をいかに重視し、敬っていたかが見てとれる。
万物受け入れ発展した敦煌文化
2023年6月に開催された文化伝承発展座談会に出席した習近平総書記は、「中華文明には際立った包容力がある」と明言した。敦煌文化が示す多様性と多様な文化を吸収し蓄積するという特徴は、中華文明の際立った包容力を表す具体例だ。
西魏時代(535~556年)に建造された莫高窟第285窟は、西壁北側の最上部に上下二部構成の月天(月やその光明を神格化した神)がある。上は4羽の白鳥がひく車に乗る月天が月輪の中に描かれ、下は3頭の獅子がひく月車が描かれている。これは当時のギリシャや西アジア・中央アジアに、白鳥や獅子を女神の乗り物と見なす文化があったことに由来する。月天に相対する南側には、馬車に端座する日天が日輪の中に描かれている。「馬車に乗る神」という象形は、インド神話の太陽神スーリヤが由来というのが、おおかたの意見だ。そして日輪の下部には、3羽の鳳鳥がひく日車が描かれている。中国の伝統文化では、鳳鳥は太陽の象徴の一つだ。ギリシャ、西アジア、中央アジア、インド、中国といったシルクロード沿線におけるさまざまな文化的象徴が、一枚の壁画の中で交わり、融和している。
敦煌の壁画や蔵経洞の文献や文物を見る限り、長期間にわたってこの地域で多民族が生活し、複数の文字が共存していたことは明白だ。敦煌研究院の張元林副院長は「前漢時代の敦煌郡設置以降、当地の住民構成は漢族が主体の多民族だった。少数民族による政権交替が何度かあったものの、ここで生存し繁栄してきた異民族や異なる信仰を持つ人々は、文化の違いで他者を傷つけることはなく、むしろ長所を学び合い、和やかに共存してきた。世界に残る文化的奇跡の多くは、宗教的対立や民族的な衝突が原因で破壊されてきたが、千年以上にわたり建造が続けられてきた莫高窟は、深刻な人為的破壊をほとんど受けていない。これは多様な文明と信仰が交錯する敦煌の歴史が、相対的には寛容で平和的であったことを示している。すなわち、この地では各民族の言語、文字、文化などがしかるべき尊重を受けてきたということだ」と述べている。
歴史という大河の中で、敦煌文化は中華文化を基盤としながらも、常に他地域や他民族の文明成果を吸収し、取り入れ続けた。それはまさに国学の大家である季羡林氏の「敦煌文化の輝きはまさに各民族の文化のエッセンスが溶け合ったものであり、数千年にわたって融合と調和を重ねてきた中華文明の模範だ」という言葉そのものだ。