友好・平和の思い語り継ごうーー神宮寺敬さんをしのぶ

2023-04-17 15:53:00

中央広播電視総台(CMG)日本語キャスター王小燕=文・写真提供


2002年の大みそかの夜、北京放送が伝える中国の国家指導者らの新年のあいさつに耳を傾ける神宮寺さん夫妻

まだ浅い日曜日の午後、甲府から悲報が届きました。103歳の誕生日まであと12日という2月12日、長年にわたる北京放送のリスナーで、『人民中国』の愛読者でもある神宮寺敬さんが逝去されました。「もう一度だけ中国に行きたい、と父は言い続けていた」という長女敬子さんの言葉に、ご本人の無念を感じずにはいられませんでした。 

神宮寺さんは、戦争の悲惨さを目の当たりにしたことから、中国との平和友好をライフワークとして取り組んできました。中国の友人や「子どもたち」と呼ぶ若い人たちの間で、神宮寺さん夫妻は「おじさん」「おばさん」と呼ばれ、親しまれていました。 

悲報を受けた『人民中国』の王衆一総編集長は、「今年の創刊70周年を前に、かけがえのない人を失った」と悲しんでいました。おじさん一家と親しく付き合っていた北京放送の張振華元局長、蘇克彬元副編集長、張富生元副台長は共に、「私心なく中日友好を願い、中国の発展を願っている真の友人だった」と神宮寺さんの死を悼みました。 

天国へと旅立たれたおじさん、おばさんのご冥福をお祈りし、拙文をお二人への供養とさせていただきます。 

 

中国人研修生に自宅を開放 

武田神社(甲府市)から山に向かって徒歩約15分。甲府の「奥座敷」として知られるのどかな田園地帯に、神宮寺おじさんの家があります。庭先からは甲府盆地を一望でき、南アルプス連峰が見えます。 

私は2002年7月、北京放送16人目の研修生として、ここで半年間ホームステイをしました。 

朝6時頃、柴犬レオの鳴き声を合図におじさんが起床。犬の散歩の後は朝食の支度をします。綾子おばさんは数年前、事故で手に大けがを負い、以後この家ではおじさんが炊事担当です。 

ご飯に梅干し、みそ汁が定番の朝食ですが、米は自分の田んぼで収穫したもので、梅干しはおばさんの手作り。山にあるウメの木から採って漬けたものです。みそ汁も、手作りみそと煮干しを使ったおじさんの特製。普通の家庭料理ですが、この家にしかない味です。 

朝食の前に重要な「儀式」があります。食卓の側にある仏壇に向かって般若心経を唱えます。 

「ああ、今日もすらすら読めたので、まだボケていない」という感想も忘れません。 

食卓では、たまに外国人の私が戸惑う言葉遣いも聞きました。 

「ああ、今日のご飯はコワい」 

「おじさん、落語で『まんじゅうコワい』というのは聞いたことがありますが、ご飯のどこがこわいのかな」。こんな感じで1日が始まります。 

当時82歳だったおじさんは、自ら創業した会社の社長で、毎日マイカーで通勤していました。週末は兼業農家となり、私も田んぼの仕事や畑の草むしりを手伝いました。 

おじさんは、あるエッセーにこう書いています。「他人は私たちに、『中国の多くの娘息子さんを引き受けて大変ですね』という。私たち夫婦は日本と中国との友好を生涯の仕事、ライフワークと思い、楽しく続けていきたいと思っている」。中国人の若者を自宅に受け入れ、半年も共に暮らすことの大変さを苦にせず、むしろ「さまざまな会話の中からその時々の中国の様子を知ることができ、勉強になることが多かった」と振り返っていました。 

ある晩のことでした。おじさんは自分が書いた随筆文を見せてくれました。新聞の投書欄に採用され、好評を得たエッセーです。「短い祝辞」という見出しで、副題は「お前愛しているよ」でした。 

内容は、めい御さんの結婚式に出席した日に起きたことについてでした。その日、おじさんは車を運転していて追突事故に遭ってしまいました。頭の中が真っ白になった次の瞬間、妻綾子さんの顔が浮かんだそうです。帰宅後、早速この話を綾子さんに話すと、綾子さんはうれしそうな顔になりました。それを見たおじさんは、「言葉にすることの大切さを知り」、それからは、「連れ添って40年口にしなかった『お前が好きだよ』を何かにつけて言うようになった」とユーモアたっぷりにつづっていました。とても心が温かくなるエッセーでした。 

こうした何気ない小さな出来事から悟ったことを、おじさんは普段着の言葉でよく語っていました。余談ですが、おじさんは手相を占ったり、手の中に握った碁石を瞬時にもう一方の手の中に移動させたりする手品までこなしました。このほかに、おじさんは卓球の選手で山岳部の出身、囲碁アマチュア三段、生け花日本古流の免許皆伝といった趣味人でもあります。そうしたたしなみの中から豊かな感性が育まれ、人生を達観できたのだと思います。 

 

中国の「娘息子」と同じ釜の飯 

「友好とはお互いを知ること。これには同じ釜の飯を食べることが大事です」。このシンプルな言葉がおじさん夫妻の「行動指針」でした。研修生の受け入れを始めた1986年から、夫妻は中国の知人や「娘」や「息子」たちに会うため、毎年中国を訪問しました。中国との交わりは、まるで神宮寺家の「年中行事」のようでした。 

しかし、それから三十数年たち、月日が流れれば山あり谷ありで、人生さまざまな出来事が起こります。神宮寺家でも家族の人が病気になったり、事故などの不幸が起きたりしましたが、中国との交流が途絶えることはありませんでした。 

66年以降、神宮寺さん一家と家族ぐるみのお付き合いをしてきた新華社の元駐日首席記者の劉徳有さん(現『人民中国』顧問)は、中国との友好交流一途だった神宮寺さんを、「荒波をくぐり抜け、真理を追い求め、中日友好の信念を貫き通された方」と大変尊敬していました。私も同じです。 

では、その強い信念は一体どこから来たものでしょうか。私は少しずつその答えが分かってきました。それは、神宮寺おじさんの戦争から平和への旅路といえるものでした。 

 

侵略の反省胸に平和守る活動へ 

1945年8月15日、神宮寺敬さんは日本の敗戦を上海で迎えました。 

「通信部隊で戦闘の主力ではなかったものの、軍隊の一員として日本の中国侵略に加担しました。申し訳ありませんでした」 

これは、おじさんが初対面の中国人と交流する際、いつも真っ先に伝えることでした。 

おじさんによると、母校の旧制甲府中学の同級生167人のうち、ほとんどが志願や徴兵によって戦地に駆り出され、約50人が若い命を散らしたそうです。 

戦場から戻ったおじさんは、「自分だけが生きて帰ってきた」という負い目から、家族にもなかなか戦争の悲惨さを伝えることができませんでした。しかし、原爆で生き残った負い目を抱える女性を描いた映画を見て、やっと話す覚悟がついたそうです。「若く散った同級生の無念さ、その家族の悲しみ、また二度と教え子を戦場に送るなと叫ぶ恩師の願いを、生き残った者たちで語り伝えたいと思う」――2013年3月27日付けの朝日新聞朝刊に掲載された神宮寺さんの投書の一部です。 

14年、日本政府が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をした後、おじさんはおばさんと共に反対デモに参加。「戦争は静かにやってくる」と山梨平和ミュージアムの会報に寄稿し、警鐘を鳴らしました。 

同じ年に、日本のメディアからの取材依頼に対し、「二度と戦争させない(したくはない)という点を結論として、取材してほしい」と単刀直入に「条件」を申し出ていました。 

戦争への強い警戒心とともに、おじさんには、家族と一緒になっての日中友好というライフワークがありました。中でも、北京放送と『人民中国』との出会いで得た人生の収穫についてこう述べています。 

「北京放送のリスナーになったことにより、世界平和の大切さ、特に日中不再戦こそ世界平和の基であることを知りました」 

「『人民中国』との出会いを機に、日中友好は私の人生そのものと心に決め、家族と共に歩むことになったのです」 

おじさんは約70回にわたり訪中し、中国の友人たちとの絆をつなぎ続けてきました。 

「たとえ細くても個人と個人、民間同士が継続して友好関係の道を閉ざさなければ、国同士の戦争は起きない」とおじさんは話し、確固たる信念を貫きました。新型コロナの下、100歳になってもなお訪中を予定していましたが、残念ながらそれはかないませんでした。しかし、おじさんは中国とのつながりを人生の最期まで続けました。 

101歳となったおじさんは21年、中国各地の絵手紙の愛好者と交流したり、両国メディアの取材を多く受けたりしました。中でも、中央広播電視総台のカメラに向かって話した次のメッセージは、傘下の中国中央テレビを通して中国全土に放送されました。 

「隣国中国と争えば両国が傷つき、友好であれば両国が栄える。全ての問題は話し合いで決め、仲良く過ごしたい。私は自分の体験上、心からそう思っています。そのことは子どもたちにも良く伝えていきたいと思っています」 

さらに念を押すように、「両国が仲良く、世界中が仲良く暮らしていくことを願っています。よろしくお願いいたします」と語りました。 

この最後の一言は決して美辞麗句ではなく、101歳のおじさんが後世に最も残したかった心の声だと、私の胸に響きました。 

 

「夕焼けのように人生終わりたし」 

おじさんの悲報が伝わり、中国でも多くの人がその死を悼みました。 

親友の劉徳有さんは、「神宮寺敬ご夫妻、ご家族の皆様が作られたこの歴史、いつまでも大事にしましょう。歴史を作るのは人民、歴史を動かすのも人民、このことを固く信じつつ」と、その功績を大きくたたえました。 

王衆一総編集長は、「中日の友好とは、結局は人と人との友好です。私たちは、まさに人民友好の旗印の下で神宮寺おじさんと出会い、理解を深め、固い友情で結ばれてきました」と、半世紀余りにわたるおじさんと編集部との交流を表現しました。 

おじさんが北京滞在中に「自分の家」として利用していたホテル民族飯店の夏敏輝総支配人は、「神宮寺さんの日中友好活動を、微力ながら舞台裏から支えることができたのは光栄でした」と弔電を送り、別れを惜しみました。 

長女敬子さんによると、甲府市で2月17日に行われた告別式には、若い方々の姿も見られました。中国からも、おじさんとの交流会に参加した若者たちからお悔みのメッセージが届けられました。「天国に行かれても、おじさんの生き方は私たちの思い出の中に永遠に生き続けます」と追悼したのは、2015年に「95歳の日本人おじいさんと『95後』(1995~99年生まれ)大学生との交流会」を開いた中国人民大学の学生だった張敏さん(28)です。「夕焼けのように人生終わりたし」 

これは、おじさん夫妻と親交を深めてきた元北京放送スタッフの李順然さん、鄭湘さん、李健一さんたちが大事にしている神宮寺さん直筆の俳句です。 

ちょうど北京放送とUTY(テレビ山梨)との間で研修生交流事業の話が出た頃、東京支局に駐在していた李順然さんはおじさんの家を訪ねて、研修生たちの泊まることになる部屋を見せてもらいました。 

「初めは神宮寺さん自身の勉強部屋を、後には息子さんが使っていた一番良い部屋を下宿に充てていました。あの日、甲府で見た夕焼けは実に美しかった」と懐かしそうに振り返っていました。 

いま、神宮寺さん夫妻はその美しい夕焼け空に召されました。しかし、世の平和と友好を願うその美しい輝きは、いつまでも世の中を照らし続けていくでしょう。 

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