香り高い「一枚の葉」の物語(上) 海を渡った中国の茶
蔡夢瑶=文
「柴・米・油・塩・醤油・酢・茶」は、中国の人々の日常で大事な七つのものだ。「茶」は、何千年もの歴史の中で、東洋全体、さらに世界中で欠かせない飲料文化に発展してきた。昨年11月29日、「中国の伝統的な製茶技術とその関連習慣」が、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の人類無形文化遺産の代表的な一覧表に登録され、千年の香りを残す中国茶が再び世界の注目を集めた。
木の葉が「生命の飲み物」に
中国は、茶を発見し利用した最初の国であり、茶樹資源が最も豊富な国でもある。人類がその有効性を発見する前は、茶はただの平凡な木の葉として扱われていた。茶に関する最も古い記録は、中国で最初の薬物専門書『神農本草経』(紀元前1世紀頃)に登場し、「神農は百種類の草を試し、72種類の毒にあたったが、茶でそれを解毒した」とある。この古い伝説によれば、古代の人々は茶を薬用植物として使用していたようだ。
その後、古代中国人は知恵と手を使って茶葉を飲み物に加工した。魏晋時代に至ると、中国では成熟した製茶技術と広範な喫茶習慣が形成された。
茶は唐で盛んになり、宋で隆盛を極めた。唐代には、陸羽が著した『茶経』が現れ、茶葉の生産の歴史、源流、生産技術、喫茶の方法などが記録された。これは世界で現存する最も古く、最も完全で、最も包括的な茶の専門書であり、中国茶文化の正式な形成を象徴している。唐代の茶文化の隆盛は、多数の茶詩が現れたことからもよく分かる。李白、白居易などの有名な詩人たちが多くの茶詩を残している。
茶器や水質、水温、環境、心境などにこだわる中国の茶文化(vcg)
宋代に入ると、茶葉生産は空前の発展を遂げ、茶の風習も盛んになり、茶館も繁盛した。茶は宋代の社会文化のあらゆる面に溶け込んでいた。高官・貴族から一般庶民まで、茶はあらゆる階層の日常生活において必需品となっていた。宋代の「点茶」「闘茶」などの文化は、宋の僧侶によって日本にも伝えられ、日本の茶道の発展に大きな影響を与えた。
また、雪山の高原における喫茶の歴史は古く、最新の研究によると、茶葉が四川地方に伝わった漢の時代には、チベットの先住民たちも雲南・四川の境界地域で茶葉を味わっていたとされている。唐代には、中国南西部および北西部地域からチベット高原に入る重要な商道である茶馬古道を通じてチベットなどの地域に茶葉が運び続けられた。以降、「世界の屋根」と呼ばれるチベット一帯で、喫茶の習慣が代々受け継がれ、現地の人々にとって茶は「生命の飲み物」と見なされるようになった。肉を一日三食の主食とし、果物や野菜の摂取が少ないチベットの人々にとって、油分を取り除き、消化を促す茶は、乳製品や肉類と同じような生活必需品になった。
「一枚の葉」から「生命の飲み物」となった茶は、中華民族の歴史の流れの中で、ますます重要な役割を果たしている。有名な茶文化研究学者である関剣平氏は次のように説明する。「茶は酒とは違い、性質が穏やかで、誰とでも共存することができ、どんな社会集団でも茶を受け入れられます。国民全体が茶を飲むことにより、中国社会全体が茶文化を重視し、茶から精神的な慰めや文化的な啓発を受けられるようになります。これは他の飲み物では代替できないことです」
数千年にわたり、中国人は茶を製造し、入れ、味わうことで、穏やかで包容力のある心構えを育み、含蓄に富んだ品格を形成した。茶を飲み、分かち合うことは、人々が交流し、コミュニケーションを取る重要な方法であり、茶でもてなす、年長者を優先するなど、茶に関連する礼儀作法は、中国人の謙虚さ、和やかさ、礼儀正しさ、他人への敬意といった文化的精神を表している。
中国茶の香りを世界に
今や東洋の不思議な「木の葉」はすでに海を渡り、世界の5大陸に足跡を残している。世界64カ国・地域で茶の栽培が行われ、160カ国・地域で茶を飲む習慣がある。英国の紅茶専門家であるジェーン・ペティグルー氏は、世界の茶文化はさかのぼれば全て中国にたどり着くと指摘している。
茶が最初に世界に広がったのは、5世紀のことで、絹、磁器などと共に中国文化の重要なシンボルとして、シルクロードに沿って東アジア、南アジア、中央アジア、西アジアに次々に伝わった。7世紀の唐代には、中国に来た日本、韓国の僧侶が「薬用」という名目で茶の木を持ち帰り、未病予防や健康のために使った。
日本の茶文化は、1200年以上前の奈良時代までさかのぼることができる。唐代の僧侶・鑑真(688~763年)と日本の留学僧・最澄(767~822年)が持ち込み、すぐに日本の上流社会で広まった。『日吉社神道秘密記』によると、805年、中国留学を終えた最澄が茶の種を日本に持ち帰り、日吉神社の近くに植えたため、ここが日本最古の茶園となったという。宋代には、栄西禅師が留学からの帰国後に茶法を大いに広めた。こうして茶文化は日本の土壌に根付き、独自のスタイルや特色を持つようになり、中日両国の文化交流の歴史を見守ってきた。
横断山脈を進む荷馬隊。茶馬古道は横断山脈の奥地を通っており、特殊な地理環境のため、貨物はラバやヤク、人力で運ぶしかない(写真・徐晋燕/中国国家地理)
15~17世紀の大航海時代には、世界各国の距離がそれまでになく縮まり、茶の薬効もさらに広く知られるようになった。オランダ東インド会社は、航海の優位性を生かし、緑茶を澳門(マカオ)からインドネシアのジャワ島に輸送し、さらに欧州に運び、欧州の喫茶ブームを引き起こした。
万里茶道は17世紀末にユーラシア大陸で発展し、現在の中国・モンゴル・ロシアを通って、シルクロードに次ぐ、茶葉貿易を主とするもう一つの国際商路となった。当時、晋商(山西商人)を代表とする商人たちは福建省武夷山などの茶産地で茶葉を調達し、水陸交通を経てロシアのサンクトペテルブルクまで輸送し、そこから欧州各地に販売していた。この約1万4000㌔に及ぶ茶道は、茶葉の生産、加工、貯蔵、輸送、貿易を含み、巨大な産業チェーンを形成しただけでなく、人・物・資金・情報を運ぶ流れが経済の発展を促進した。
英国は欧州で茶を最も愛飲する国の一つであり、王室を中心に、茶を飲むことが貴族のファッションとなった。彼らは、茶が覚醒、疲労回復、酔い醒ましに効果があることを発見し、長期にわたる飲用にも副作用がないことを確認した。まもなく、茶の飲用は英国社会のあらゆる階層に広まった。中国と英国の茶の貿易は、17世紀から18世紀初頭にかけて発展し、大きな利益によってさらに活発になった。当時、世界で最も発展していた国である英国は、欧州のブームをけん引した。17世紀末から、中国の茶が世界的に広がった。
現在、中国は茶葉生産量と茶園総面積が世界一の国となり、輸出量は世界茶葉輸出量の約5分の1を占めている。1085の県と3000万人以上の茶農家が、この「一片の葉」で豊かな生活を送っており、茶産業は人々の生活をけん引する大きな産業となっている。悠久の歴史のある中国茶は、世界の人々が共有する文化財でもある。(7月号に続く)