方寸に彫り込む宇宙観駱芃芃が歩む篆刻の道
袁舒=文
駱芃芃=写真提供
駱芃芃さん
駱芃芃さんの略歴
1958年北京生まれ。中国芸術研究院篆刻院名誉院長、国家1級美術師、博士課程指導教官、第18回党大会代表、第13期政治協商会議全国委員、中国書法家協会理事、西泠印社(篆刻関係の学術団体)理事。何度も国内外で個人芸術展を開き、大規模な専門展示会に参加。多くの作品が中国美術館や人民大会堂、中南海、英国王立芸術院、チェコ国立博物館などに収蔵。『篆刻芸術講座』『青草芃芃――駱芃芃論文集』など100冊以上を編著・監修。
篆刻は、数千年にわたって受け継がれてきた中国の伝統芸術の一つである。書道と彫刻の技法が結び付き、石などの印材に文字を彫り込み、精巧で美しい印章を作る。篆刻は昔から中国人の生活に欠かせないもので、中国の漢字の発展を見続けてきた「生きた化石」だ。
2006年、中国芸術研究院篆刻芸術院が創設され、09年には中国の篆刻は、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の「人類の無形文化遺産の代表的リスト」に登録された。こうした画期的な動きの背後には、篆刻芸術のために黙々と努力を続けてきた一人の女性の姿がある――「彫刻刀の女神」といわれる篆刻芸術家の駱芃芃さんだ。22歳で篆刻の世界に入った駱さんは、40年以上にわたりこの芸術に人生をささげてきた。また、その豪放な作風で篆刻の世界における女性の先駆けとなり、篆刻文化の復活と発展に多くの力を注いできた。
篆刻芸術の種まいた人
篆刻は殷商時代(紀元前1600~同1046年)に始まったとされる。その社会的・文化的な性質から、政治の世界で重要な役割を果たしてきた。印章は、明・清時代(1368~1912年)から芸術品としての鑑賞と創作が始まった。ここ20年ほどは、篆刻の持つ意味が大きく多様化し、より強く象徴の意義を備えるようになった。その最も代表的なものがシンボルマークだ。中国人に最もよく知られたシンボルマークは、08年に開かれた北京五輪の大会シンボルだ。このマークによって、全世界が篆刻という芸術を知り、その国境を越えた美しさは世界から認められた。
この五輪大会シンボルのデザインチームのリーダーだった郭春寧さんは、中央工芸美術学院で研究していた頃、駱さんの篆刻についての講義を受けた。郭さんは西洋画を専門に学んでいたが、この篆刻に関する講義に強い印象を受けた。
「印章の朱と白地の配置は、実質的には西洋美術のデザイン学です。講義で東西の理念を一緒に結び付けて教えるのは、学生にとっても大変ためになります。今ここで学生の心にまいた中国の印章という種は、いつの日か思いもよらないところで実を結ぶかもしれません」――この駱さんの話は郭さんの心の中で芽を吹いた。そして、北京五輪(08年)の大会シンボルのデザインとして花開き実を結んだのだ。郭さんはそれまでの篆刻に関する知識を思い出し、篆刻の形を使った大会シンボルのデザインを思いついた。こうして全世界の人々の心の中で踊る「京」の印が生まれたのだった。
駱さんはこう自身の体験を話した。「私は青少年の育成をとても重視しています。子どもが知らず知らずに影響されて学ぶ教育――これこそが子どもたちの心に中国の印章の種をまくことです。将来、その子は篆刻家にはならないでしょうが、心にまかれた種はいつか必ず芽を吹き、美しい出会いとなるでしょう」
駱さんが初めて篆刻に触れたのは7歳の頃だった。父親の手ほどきで、初めて自分の印章として「芃子」と彫った。その後、長い間、駱さんが再び篆刻に触れることはなかった。だが、その種は心の中にまかれ、何年もたってから自ずと彫刻刀を手にすることになる。それから40年余りこの道一筋でやってきた。だからこそ、駱さんは青少年への篆刻の普及と教育に全力を注いでいる。現在、教育部と国家語言文字工作委員会の主催によって毎年全国の小中高校生・大学生と教師を対象にした「『中国を刻もう』師弟篆刻大会」が開催され、年々多くの若い人たちを篆刻の世界へといざなっている。駱さんは責任者としてその審査を取りまとめる仕事を担っている。
2014年4月、「第30回日本篆刻展」に参加した中国芸術研究院中国篆刻芸術院代表団と日本篆刻家協会のメンバー
「篆刻は私の命の一部」
篆刻のこととなると、駱さんの話は尽きない。「篆刻は私の命の一部のようなものです」と駱さんは言う。時代の変化という洗礼を受け、駱さんも篆刻の存続は早急に解決しなければならない問題だと見ている。このために駱さんは、篆刻の世界遺産への登録と独立した学科の創設という二つのことを行った。
「篆刻芸術の世界遺産への登録成功は、本質的に篆刻が国際社会で『居場所』を得たということです。そうなれば、いい加減に消し去ることはできないし、しっかり生きていくよう保護される権利が与えられます」。駱さんの積極的な取り組みにより篆刻芸術の世界遺産登録は成功し、篆刻という芸術は世界の舞台に進出した。また国際的により多くの尊重と保護を受け、資金援助と継承の機会を得た。
同様に、駱さんは長年にわたり、独立した篆刻学科の創設に尽くしてきた。「私たちが篆刻を教育システムに取り入れたのは、篆刻を継続的に順調に発展させるためです」。篆刻を一つの独立した学科として確立させてこそ、多くの質の高い後進の人材を育成できるし、長く発展していくための基本的な保障となる。駱さんは篆刻学科の創設を主導し、全国で初めての篆刻芸術専門の大学院生や博士課程の研究生を受け入れ、重点的に育成した。
「以前、篆刻には誤解がありました。それは、印章とは職人が制作するもので、教養がなく、立派なところには出せない――というものでした。元代の文人が印章制作を通し、篆刻を自身の教養を高める趣味として始めたことで、こうした考え方が変わりました」。駱さんは学生募集の基準として、学生の彫刻刀の技巧以外に総合的な素養を大変重視した。例えば外国語や文学概論、芸術概論など幅広い教養分野の教育に大きな力を入れた。駱さんは、多元的な知識体系を持つ人こそが、篆刻芸術を継承するという重要な使命にふさわしいと考えている。
こうして篆刻は駱さんの子どものように「母親」に守られながら力強く生き、健やかに成長している。
鳩山由紀夫元首相と駱芃芃さんが「共鋳大器」イベントで共同制作した作品「友愛」。鳩山氏がしたためた文字を駱芃芃さんが印面に刻んだ
海外への発展に重要な対話
世界遺産の登録も含め、篆刻文化が海外に進出する道のりは厳しいが、必然的な選択でもある。駱さんはたびたび海外で展示会を開いたり講義を行ったりしており、伝統文化の海外普及について深く思うところがある。自らも若い時から日本の専門家と親しく交流してきた。
「私が今の成果を得られたのは、以前に栄宝斎(北京にある書画や印鑑、硯・墨などを売る老舗)にいたときに積み重ねた篆刻技法の猛特訓抜きには語れません。当時、栄宝斎は日本の篆刻家と多く交流しており、『彫刻刀の女神』という呼び名も日本の篆刻家の友人が付けてくれたのです」。振り返ると、22歳で栄宝斎に入った駱さんは、最年少かつ入店後最速で作品の値段付けが認められた篆刻家だった。
1978年に改革開放の幕が開き、81年に対外的に門戸が開かれると、日本や韓国、シンガポールから多くの人が中国にやって来て、書画やを購入した。当時、日本の篆刻家協会の交流団は毎年中国を訪問。北京に到着するや栄宝斎に来て、印鑑をオーダーメードした。
一つの団体のメンバーは30人以上で、全員が3個以上購入した。駱さんは、一行が帰国するまでの5日間に大量の印鑑を彫らねばならなかった。「あの頃は一番多くて1日に20個近く彫りましたよ。熟練の技巧というのは全て栄宝斎で身に付けました」
その後の駱さんの篆刻芸術家としての成長の道のりには、常に共に歩んだ日本の篆刻専門家の姿があった。篆刻院の創設後、駱さんは日本篆刻家協会や全日本篆刻連盟などの著名な篆刻家を同研究院の顧問として招請。また、両国の篆刻芸術文化の交流と相互参考を絶えず行うとともに、芸術家同士の交流も深めた。
篆刻院は、初の海外展覧会の開催地に大阪を選び、『道徳経』(老子の作といわれる書)36個の原石を展示した。日本の芸術家との交流を思い出すと駱さんは、日本の先人や同輩は皆尊敬と追憶に値するといつも感慨深げだ。また、芸術家同士の「才人は互いを重んじる」姿勢を実感するとともに、日本の芸術家の緻密さとこだわりを持った学術精神に心を打たれたという。
中国と文化的な背景が似ている日本以外に、篆刻文化の魅力を西洋に紹介することも駱さんが心血を注ぐ仕事だ。駱さんは以前、英国で個展を2回開いたことがある。最初は諸子百家(春秋時代の思想家群)の警句の展示だった。しかし駱さんは、シェークスピアやニュートンの「名誉を奪われれば、わが命はない」「知は力なり」といった多くの名言を展示作品に取り入れた。これは、外国の参観者に少しでも中国の古い伝統文化に共感してもらいたかったからだ。
駱さんは、「自国の文化が海外に出るというのは、本質的には一種の文明間の対話です。異なる文化の担い手が溶け合う過程で、文明の衝突によってまた違った火花が飛び散るのです」とみる。だから駱さんはどの国に行こうとも、まず相手の文化を尊重し、その国の歴史と文化背景を学び、さらにその国の人々が心から好むものを掘り起こそうと考える。そうして相手文化と自国文化の有機的な融合を追求する――これは単に文化を輸出するのではなく、ましてある考えを教え込んだり、無理やり他人に押し付けて受け入れさせたりするのではない。
駱芃芃さんがデザイン・制作した人民大会堂のロゴの印章「大会堂」。人民大会堂の内部装飾やティーカップなどの物品に幅広く使用されている
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中国芸術研究院篆刻院の創設以来、研究院の仕事や授業がどんなに忙しくても、駱さんは決して人任せにしない。だが一人の芸術家として、自分の作品も大変重視している。事務的な仕事が多くて個人の創作時間が取れないとき、駱さんはいつも週末に外出せず、部屋に閉じこもって創作に打ち込む。「深夜の1、2時に眠りにつくという生活がもう40年以上も続いています。この年になると体の不調はつきものですが、病院に行く時間もないし、病院に行くのも怖いんです」
「ずっと家族には一番申し訳ないと思っています。私に代わって家のことをほとんどやってくれます。私は家事を何でもこなすような理想的な主婦ではありませんが、家族は一度も文句を言ったことがなく、私の仕事をやめさせようともしませんでした」。こうした家族の理解とサポートにより今まで歩んで来られたと、駱さんは家族への感謝でいっぱいだ。
「篆刻の世界は森羅万象を包み込み、その進歩に終わりがありません。私は、知らないことや未挑戦のことがたくさんあると思うと、心に希望が湧いてきます。この気持ちが私の一番の創作意欲でしょう」。今も駱さんが今後の篆刻人生を語るとき、その瞳には希望の光がきらめいている。