世界に名をはせるたこの里 技術磨き民間芸術を未来へ

2023-10-27 09:12:00

李家祺=文 李昀=イラスト 

  

()(ぼう)駅のロビーに立ち、顔を上げて見ると、二つの巨大な(りゅう)(とう)()(こう)たこが天井からつり下げられている。大きな頭に短くて四角い口、丸い目、逆立った眉を持ち、非常に威厳がある。体は無数の円形のたこがつなぎ合わされて出来ており、蜈蚣(ムカデ)に似ていて、「多福多祥」という意味が込められている。このようなたこを見ると、濰坊に来たという実感が湧いてくる。 

濰坊市は山東省中部に位置し、東側には青島がある。中国で濰坊といえば、たいていの人はまずたこを思い浮かべる。歴史上、この土地は手工業の発展した地域として有名で、たこのほか、木版年画、核彫(果物の種に彫刻をした芸術品)、切り絵、銀象眼漆器など、200項目余りの伝統工芸が現在まで伝承されている。2021年に濰坊はユネスコ(国際連合教育科学文化機関)によって「手工芸と民間芸術の都」に選ばれた。 

濰坊は悠久で豊かな文化資源に恵まれ、繁華な都市景観が古城や園林、湿地、河流と共に、古今が溶け合い、緑があふれる景観を織りなしている。昨年、2024年「東アジア文化都市」に選ばれた濰坊は、この機会に日本韓国と人的文化交流をさらに強化していく。濰坊の町に入り込むと、至る所でサブライズに出会える。 

 

質朴で緑豊かな現代都市 

坊市を南北に貫いて流れる白浪河は、同市の母なる川だ。近年、坊市の環境の保護修復作業が不断に推進されるにつれて、白浪河の川岸には美しい生態絵巻が繰り広げられている。 

市中心部の人民広場を出発し、車で約15分走ると、車通りの激しい都市景観から一変、連綿と続く緑が視界に入ってくる。ここは長江以北最大の都市湿地公園――白浪緑洲湿地公園だ。08年より坊市は同地で解体立ち退き、障害物の除去、水系の形成、景観の緑化などを展開。現在、ここはすでに「都市の緑の肺」となり、市民の休憩やレジャーに最適な場所となっている。 

南門から入って約300進むと、拾萃(しゅうすい)園に着く。拾萃園は約2万平方の広さで、園内には移設された明清時代の古建築が数多くある。その間をそぞろ歩くと、各種あずまやや回廊が延々と連なり、どこの景色を見ても美しく、まるで絵画の中で遊んでいるかのようだ。 

拾萃園を離れ、園内バスに乗って北に向かうと、途中、市民が二、三人ずつ連れ立ってジョギングをしていたり、完全装備の自転車愛好者がペダルを漕いで通り過ぎていったりする。清々しい空気が肺に吹き込み、横目で見ると、川岸のラインはくねくねと曲がり、護岸用の岩石が素朴な顔をのぞかせて、「慌ただしい生活の中でひとときの安らぎを得る」ような感じがする。 

湿地公園の北端には6層の塔があり、秋水雲閣という。ここに登って遠くを眺めれば、湿地の景観を見渡すことができる。 

湿地公園を後にし、白浪河に沿って北上し、中流に至ると、坊市中心部にある奎文(けいぶん)門に着く。ここは明代の坊古城の城門の一つだ。城門の下には、坊で最も繁華なビジネスエリアがある。人通りの多い商店街、さまざまな風味のグルメ屋台、流行ファッションの若者たちが、古風で静かな城門と、独特な風景を構成している。 

また、坊市街地のにぎやかな通りには、巧みな配置の山水園林「十笏園」が隠れている。ここは明代に創建され、もとは嘉靖年間(1522~66年)の刑部郎中胡邦佐の邸宅だったが、清の光緒11(1885)年に現地の富豪丁善宝に高額で購入され、私有庭園として修繕された。面積が約2000平方と比較的小さいため、10枚の笏板(朝臣が皇帝に謁見する際に持つ細長い板)の大きさにたとえ、このように名付けられた。 

十笏園は小さいが、精巧で情趣に富み、独特な工夫を凝らした1)設計が至る所にある。園林の配置は北方園林の軸線と対称の構造を手本とし、中西東の3本の古建築の軸線によって構成されている。その一方で、湾曲した静かな小道、歩みを進めるごとに変わる景色には、濃い江南の味わいがある。このように南北の風格が溶け合っているのは、北方都市の中では珍しい自家園林景観だといえる。 

 

  

十笏園の風景(写真提供十笏園博物館)

  

古代の歴史の名残を求めて 

 

坊市管轄の青州市は坊市中心部から西へ約60にあり、中国最古の地理書『尚書禹貢』の記載によると、大禹は治水をして、全国を九つの州に分け、そのうちの一つが青州だった。早くも7000年余り前、ここにはすでに人類が暮らしていた。この土地には前後して広県城、広固城、南陽城など六つの古い都市が存在した。 

 

昔の記憶をとどめる古城 

灰色れんがに黒い瓦、木製の扉、ずらりと並んだ2)古い邸宅や店舗……青州古城に入ると、時間が一気に古代に戻ったかのようだった。 

南門の阜財門から古城に入り、偶園街に沿って約500進むと、右手に「江北の名園」と呼ばれる偶園がある。偶園は最初、明の衡王府の東花園で、後に清の康煕年間(1662~1722年)の文華殿大学士馮溥が引退して故郷に戻った後の住居となった。 

偶園の配置3)と規模は皇宮の御花園とほぼ同じだ。園内にある4株の明代のモクセイ、6株の明代のオウバイ、2株の明代のツゲは、450年間茂り続けている。入り組んだあずまや、連なる築山4)があり、中国画のような景色が広がっている。 

偶園はどの季節でも魅力的だが、中でも秋が特に美しい。銀杏の葉が灰色れんがの道を覆い、紅葉と反り返った軒先5)斗拱(ときょう)が引き立て合い、涼しい微風が吹き抜け、かすかな鳥の声が奇岩怪石の間に響き、「鳥鳴いて山さらに(しずか)なり」という妙味を感じられる。 

 

青州の三賢祠。右側にあるのは「世界のトウキササゲの王」(写真王漢平) 

 

范仲淹ゆかりの公園 

青州は昔から教育が発達し、人材が輩出されてきた場所だ。青州古城の北東約1にある范公亭公園では、多くの文人名士がこの地に残した足跡を見つけることができる。范公亭公園は北宋時代に創建され、当時の傑出した政治家文学者の范仲淹が青州に仁政を施したことにより名付けられた。 

范公亭は六角形の軒先が反り上がった屋根を持ち、柱の上部は木造、下部は石造という独特な風格を備えている。亭の中には井戸がある。言い伝えによると、范仲淹は青州知州(州の長官)のとき、官吏として清廉で、仁政を施したほか、この井戸水で「青州白丸」という薬を作り、同地で長年流行した「紅眼病」を治したという。亭のそばには高さ12超、樹齢1300年のトウキササゲが、古い枝を曲がりくねらせ、力強くそそり立っている。大人四、五人が手をつないでやっと抱きかかえられるほど太く、林業の専門家によって「世界のトウキササゲの王」と認定されている。 

范公亭を抜けると三賢祠があり、そこには3人の青州知州――范仲淹、富弼、欧陽修が祭られている。このほか、園内には宋代の著名な女性詞人李清照の記念館や、青州歴代賢士について展示する澄清軒などもある。さまざまなあずまや、生い茂った樹木、くねくねと曲がって流れる小川があり、ここでは自然景観と人文景観が互いに照り映えている6) 

2014年から青州市は范公亭公園の改修をさらに進め、古樹も保護のための補強処理や科学的な管理保護を受けるようになった。ここは盆地のため、冬は暖かく夏は涼しく、現地の人々が休暇を過ごしたり散歩したりするのに最適な場所ともなっている。 

 

国宝が集まる博物館 

「明代の青州人趙秉忠の殿試状元巻(科挙の最終試験で首位だった解答用紙)、後漢時代の『宜子孫』玉璧、龍興寺の仏像、これらはどれもわれわれ青州の国宝級の文化財だよ!」と、現地の市民が紹介してくれた。言葉の端からは青州の厚い文化の蓄積に対する自信とプライドがにじみ出ている。 

范公亭公園を出発して、南西方向に約2進むと、国宝級文化財を収蔵する青州市博物館が見えてくる。顔を上げて見ると、土台が高く、望楼があり、傾斜した屋根を持つ漢唐様式の建築が堂々とそびえていた。 

ここは今年5月に開館した青州市博物館の新館。地上4階建てで、敷地面積は3万平方近く。階段を上り、正門を入ると、そこは博物館の2階だ。2階全体が青州歴史陳列館で、有史以前から新中国成立までの各時代の青州の文化財が途切れることなく展示されており、青州の連綿と続く文化と重厚で輝かしい歴史を物語っている。 

4階は龍興寺仏教造像の展示ホールだ。1996年、青州の龍興寺遺跡で北魏から北宋時代までの400体余りの仏像が出土し、「東方芸術史を書き換える」重要発見だとたたえられた。これらの仏像の多くは、双眼を伏せて、ほほ笑んでおり、穏やかな顔に世間の一切を洞察する表情を浮かべている。 

旧館に比べ、新館の展示品は3倍あり、ホログラムなどのデジタル技術を導入し、参観者との面白いインタラクティブ7)を実現している。このほか、博物館の各階には休憩エリアがあり、さらにレストラン、カフェ、漢服体験館なども併設されており、観光客が没入型の参観を楽しめるよう、より良い環境がつくられている。 

 

  

濰坊諸城にある超然台。北宋時代の文学者蘇軾がかつて、ここで名作『水調歌頭明月幾時有』を詠んだ

  

代々継承される技と心 

悠久の歴史の中で、神技のような技術を持つ職人は、この坊の地で、地域的特色が鮮明で多彩な民間芸術をつくり上げた。 

 

天地の間に舞う千年の技 

春秋戦国時代、墨子が魯山(現在の坊青州南西部)に居たとき、「木を()りて(はいたか)と為し」、これが人類最古のたこの起源となった。近現代に至って、坊は国内外で有名なたこの生産地と市場となった。統計によると、全世界の約8割のたこが坊で作られたものだ。 

坊市は1984年から国際たこ揚げ8)大会を40回開催し続けており、毎年春になると、中国、米国、日本など数十の国と地域の愛好者が坊に集まり、たこ揚げの技を競っている。大空を突き抜けて飛ぶ「宇宙ステーション」、巨大な「クジラ」、長さ22、幅8、厚さ5の「秦の始皇帝」……一つ一つ揚がっていくたこが、空中で色とりどりの不思議な幻想世界を生み出す。 

国家無形文化遺産坊たこの市級伝承者の謝勝利さん(45)もかつて自身の作品を携えて国際たこ揚げ大会に何度も参加したことがある。坊の寒亭区にある謝さんのアトリエ9)では、大小や造形がさまざまでカラフルなたこが、壁や机、床などに置かれている。 

 

国家無形文化遺産濰坊たこの市級伝承者である謝勝利さん(写真李家祺/人民中国)

 

謝さんは生粋の寒亭区の人だ。昔の寒亭では、たこ制作が生業でなくても、自分たちで遊ぶためにたこを作る家がたくさんあった。謝さんは知らず知らずに影響を受け、小さい頃からたこに強い興味を持っていた。「9歳のとき、こっそりと、家にあった草を集める熊手をばらして、たこを作ってみたんです。おそらく生まれながらに、たこ作りの感覚があったのでしょう。初めて作りましたが、飛ばすことができました」 

20歳の年、謝さんはたこ作りを生業とする道を本格的に歩み始めた。第一印象は少し堅苦しそうに見える彼だが、たこ作りの話になると、じょう舌になる。「伝統的なたこを一つ作るには、多くの技術が必要です。竹ひごを組み立てるのはそのうちの一つにすぎません。さらにデザインや絵を描くといった美術的な能力もある程度必要です。このほか、彫刻も少しできないといけません。坊を代表する龍頭蜈蚣たこを例にとると、龍頭の牙、目などは、発泡スチロールを使って彫刻する必要があります」 

機械化の発展は伝統手工芸にある程度の衝撃を与えた。これについて謝さんは、「私はやはり純粋な手作業を推しています。機械で削った竹は厚さが完全に同じで、逆にたこの強度とバランス性能に不利です。手作りでこそ正確な調整ができ、たこを飛ばしたときに最良の状態にできるのです」と考えている。機械で制作した竹ひごはより滑らかだが、謝さんから見れば、外観が少々「不完全」な手作り商品の中に、民間の職人たちのかけがえのない知恵が含まれている。 

 

年画に郷土への思い込めて 

寒亭区楊家埠村は中国の木版年画の三大生産地の一つで、ここで年画はすでに600年以上伝承されてきた。 

「子どもの頃、家の大人たちが年画を印刷しているとき、私は作業台の下にもぐって遊んでいました。私は年画が好きです。年画は私の血液の中にあって、生まれながらに大好きなものです」と話すのは、楊家埠木版年画伝承者の楊志濱さん(49)だ。幼少の頃、祖父母世代が営んでいた西長興画店で、この民間芸術に徐々に愛情を持つようになった。記憶によると、毎年冬、楊家埠の家々は徹夜で年画を印刷しており、当時、全国の約半分の年画が楊家埠の工房で作られていた。 

 

自身の年画作品に印を押している楊志濱さん(写真王漢平) 

 

楊家埠木版年画は色彩が鮮やかで、構図が豊か、素朴さと優美さを併せ持つ独特の風格があり、生活に対する人々の素晴らしい願いを反映している。2006年には国家級無形文化遺産に登録された。 

楊さんは1990年代に坊芸術学校の美術専攻を卒業した後、木版年画社で働き始めた。それから30年近く、ずっと年画創作の道で苦心して模索を続けてきた。積極的に社会貢献として弟子をとって技術を伝えたり、実演を行ったりもした。楊さんはこれまで寒亭区の各小中学校で伝統年画芸術を普及するための授業をすでに100回以上行っている。 

だが、時代の発展に伴い、楊家埠木版年画も課題に直面している。昔、新年にどの家でも貼っていた年画はすでにあってもなくてもいいものになり、市場の縮小により、多くの職人は次々と別の活路を探さなければならなくなった。「いまは居住環境や内装様式が変わり、市場も変わり、各種の装飾画も市場競争に加わって、年画は、つえをついてよろよろ歩く老人のように、激しい競争に直面して、確かに少し時代遅れになっています」。そう言うと、楊さんは目を赤くして、声を少しつまらせた。 

近年、楊さんは大胆な試みを行い、年画に現代生活に対する自身の理解を融合させ、人的文化的背景や時代の息吹、個人の風格をより備えた作品を生み出している。例えば、『収穫に忙しい美しい農村』では、エコ農業が故郷を豊かにし、農産品がインターネットを通して遠く各地に販売される現代の農村の情景を描いた。このほか、積極的にほかの芸術形式を取り入れ、岩彩画(鉱物系顔料を使った絵画)などの技術を用いた新年画も創作している。 

年画の伝承と革新について、楊さんは「一朝一夕を争う」責任感を持っている。用事も授業もないとき、彼は7時に起き、朝食を食べると、年画の研究創作を始める。夜11時に寝るまで、年画は彼の生活の大部分を占める。 

「現在、政府は無形文化遺産を大いに支援しており、私はこのチャンスをつかみ、楊家埠年画の歴史的隆盛を再現したいと思っています」。今後、年画創作の腕を磨くほか、楊さんにはいくつかの考えがある――明清時代の代表的な作品を復元すること、楊家埠年画の歴史を記すこと、教材を編さんし、楊家埠年画の技術の普及教学の助けとすること――である。 

 

方寸の間に大世界を刻む 

桃の種に彫刻をして作られた小舟がある。指一本より短く、船体は前方、中央、後方の客室に分かれ、両側にはそれぞれ20余りの窓があり、前方の窓は開閉でき、屋根の筋や船体のきめがはっきりと見える。船首に座っている3人は、膝に手を置いたり、腕を組んだり、それぞれ異なる姿勢をしている。船先から垂れた細い錨索には65ものリングがある……十笏園無形文化遺産スペースでは、国家級無形文化遺産坊核彫の第6代の代表的伝承者である張国華さん(47)が自身の作品『南湖紅船』を展示していた。何の変哲もない果物の種から、二つとない芸術品まで、方寸の間に豊かな情景を現出させる――これこそまさに核彫の魅力の在りかだ。 

 

国家級無形文化遺産濰坊核彫の第6代代表的伝承者である張国華さんによる核彫制作の様子(写真提供張国華) 

 

張さんの紹介によると、核彫は種選びから始まる、一つの学問だという。「異なる品種の桃の種は大きさが違い、大きいものは五、六ありますが、小さいものは1しかなく、また、同じ品種でも模様が違います」。このため彫刻する者は、種の形状、材質に基づいて、技術を使い分け、慎重に作業することを求められる。「小舟を彫るなら、形状と模様の方向がだいたい船の形に合った種を選びます。馬を彫るなら、その種に、馬の頭と足を彫る余裕があるかどうかまず見極めないといけません」 

 

張国華さんの核彫作品(写真提供張国華) 

 

彫刻は根気が必要な作業だ。核彫では、一つの彫刻刀を異なる場所に使え、それは平面でもいいし、へこんでいる部分でもいい。十数の彫刻刀を使えば、小さな種の上に、姿の異なる人物や動物、花、鳥、魚、虫などを数個から数十個彫刻でき、ミクロの大世界を作り上げることができる。 

張さんは木工に携わる家系に生まれ、師匠の下で専門的に木彫り10)を何年も学んだ。2004年に坊の銀象眼工場で管理職になったが、事務所では木彫りができず、自分の技術が駄目になるのではないかと常に心配していた。後に人の紹介により、彼は坊核彫の第5代伝承者の王緒徳氏について核彫の技術を学ぶことになった。「あの頃、坊全体で核彫ができる人は十数人しか残っていませんでした」と張さん。「師匠の最大の心配事は技術が失われることで、やる気がある生徒にはなんでも教え、よく私の家に来てまで教えてくださるほどでした」と思い出を語った。 

王氏の師匠としての風格と素晴らしい技術に張さんは敬服した。彼は心を落ち着け、一から学び、年々、自分の核彫に独特な味を持たせるようになった。後に、張さんも核彫の技術を継承発揚するバトンを受け継ぎ、オフラインで生徒を持つほか、ネット上のボランティアクラスでも技術を教えるようになった。「現在、坊で核彫に従事する職人の規模は当初の数百倍にも増えていますよ」 

張さんが教えた生徒の中には、三、四十人の身体障がい者もいる。「彼らからは学費をもらっていません」と張さん。「学習を通して、彼らは落ち着いて暮らすための技術を身に付けられるだけでなく、栄誉を得て、社会から認められ、自己の価値を実現できます。私はそれがうれしいのです」 

 

人民中国インターネット版

  

  

  

  

  

  

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