俳句と漢俳——三津木俊幸氏との交流
元文化部副部長劉徳有=文・写真提供
俳句は、いつ頃日本から中国に伝わったのだろうか?一説によると、最初に日本語で俳句を作った中国人は明末の禅僧・東皐心越(1639~95年)だとか。近代になって、日本へ渡った中国人留学生による俳句の翻訳が一時期盛んだったが、新中国成立後、日本文学の翻訳が増えるにつれ、数多くの俳句が中国に紹介されるようになった。その影響もあってか、「漢俳」——中国語の俳句という新しい詩型が今から六、七十年ほど前に中国にお目見えした。
俳句と漢俳は、それぞれの民族の生んだ文学の形態であり、特徴こそ異なれ、優劣の区別はない。
だが、俳句の醍醐味を、翻訳を通して味わうのは、「隔靴掻痒」の感を免れないし、五七五の「漢俳」も形は一応「俳句」だが、言ってみれば漢詩の縮小版のようなもので、俳句とは一味違うような気がしないでもない。しかし、筆者のように、日本語をいくらかかじった者として、俳句を吟味し、たまに、下手を承知で自分で作ってみるのも一興であろう。
長年日本関係の仕事の中で、幸いにも俳界の友人とも交流を続けているが、そのお一人が千葉県柏市在住の三津木俊幸氏。『人民中国』連載の拙文に毎号感想を寄せてくださる友人で、パソコンを通じての文通は今でも続けられている。しかし、うかつにも氏が俳人であることはつゆ知らず、ずっと後になって、ある偶然の機会に知ってびっくりしたいきさつがある。
確か、2010年の夏頃だったと記憶している。突然三津木氏から『中国西部』という四川省出版の雑誌が送られてきた。その中に、三津木氏の秀句が掲載されているではないか。
西域に続く菜の花蜀の国
※注蜀の国は中国四川省の古称
三津木氏によると、池田大作氏の著作出版に関する打ち合わせのため、四川省成都から、車で楽山、峨眉山に向かう途中、沿道は延々と数十㌔も続く金色の菜の花畑。この風景が脳裏から離れず、帰国後に詠んだのがこの一句だそうだ。
この句は、09年に朝日新聞主催の第4回関西俳句大会で特選となり、選者は有馬朗人先生で、鷹羽狩行俳句協会会長から表彰状を受けた喜びをメールで教えてくれた。筆者も早速「本当に羨ましい限りです」と祝意を述べ、かつて四川省楽山に行った折に詠んだお粗末な漢俳を、お返しにメールでお贈りした。
遍地菜花黄邀月持杯沫水旁
麻婆豆腐香
同じ五七五でも、俳句なら17音だが、漢俳は17文字。読み下し式に訳すと、
一面菜の花畑
沫水にて月を愛で酒を酌み交わせば
ことのほか香ばし
麻婆豆腐
※注沫水は四川省を流れる大渡河の古称
と散文のように長くなり、リズム感を失ってしまう。
ところが、俳人の牧石剛明氏の手にかかると、たちまち見事な俳句に早変わり。
麻婆豆腐で酌む沫水の花菜の辺
さすがである。
交流の思い出の一つにこんなこともあった。
いつぞや日本のある出版社主宰のコンクール「忘れられない中国滞在エピソード」に、三津木氏が応募されて入賞し、そのときの一文に次のことが披露されていた。
「ある年の暮れ、劉徳有先生からメールで俳句が送られてきた。
爆竹の音に消されし除夜の鐘
北京の大晦日の風景を知らせてくれ、添削をお願いしたい、との内容であった。
丁度そのころ私は俳句をはじめて三年ぐらいで、添削なぞとんでもないと思ったが、長い間の親しい友人の誼から、これも友好の印かと、生意気にも勝手に判断し、以下のように添削した。
爆竹の音の合間に除夜の鐘
ある日本の俳人が『俳句は逆的な文学』と言ったことを思い出し、それを根拠に、爆竹で鐘の音は聞こえないが、その爆竹の合間に除夜の鐘が聞こえる、というとらえ方にして劉徳有先生に伝えた。
ところが大変なことをしてしまったと、後になって気が付いた。それは、劉徳有先生が、中国漢俳学会会長だったことを知ったのだ。『ナントカ蛇に怖じず』とはこのことだ。そこで、劉先生が現会長とは知らずに添削した失礼のお詫びのメールをおくった。劉先生は、添削の御礼と共に、『勉強になりました……』と、逆に激励して下さった」。これが縁で、俳句、漢俳の交流が始まったわけである。
間もなくして、三津木氏からメールをいただき、開けてみると、俳句大会で、秀作として坊城俊樹先生の選で表彰を受けられた知らせであった。
炎天下古墳に美女の深眠り
新疆ウイグル治自区のアスターナ古墳を参観した折に詠んだ回想句とのこと。直ちに三津木氏宛に喜びのメールをお送りした。
「先ずはご入選おめでとうございます。さすが俳句の達人だと思いました。
新疆ウイグル自治区へ行ったことはございませんが、画面感と神秘感があり、眠れるウイグル族の美女と重なって想像力を呼ぶ素晴らしい秀作とお見受けいたしました。また、『炎天下』の季語がきいており、正にこの句にぴったしです。着眼点の奇抜に頭が下がります。ご入選に、今一度お祝いを申し上げます。
今後のいっそうのご活躍を期待しつつ」
また、2021年2月24日だったと記憶しているが、三津木氏からうれしいメールが届いた。「今日発売の『角川俳句』全国角川俳句大会で拙句が有馬朗人先生の選で秀逸となり、掲載されました。
カシュガルの
驢馬の積荷や豊の秋
昨年(2020年)12月6日に90歳で亡くなられた有馬先生の生前最後の選となりました。先生は中国での吟詠が多く、私の中国の句をよく選んでくださいました。これからは先生なき後、私は、目標がなくなりましたが、先生の中国を愛する精神から生まれて来る中国詠を続けて行きたいと思います」
これを受けて、直ちに返信をお送りした。
「この度は先生の秀句が入選され、本当におめでとうございます。中国新疆の風景を吟詠してくださり、心から嬉しく、感謝に堪えません。先生の秀句を、力及ばずながら、漢俳にしてみました。
喀什喀爾辺驢駄貨物圧雕鞍
秋爽喚豊年
在りし日の有馬朗人先生を偲び、ご冥福を祈っています。
三津木先生におかれましては、中国詠を今後も続けられるとのこと、ありがとうございます。ご健筆をお祈りいたします」
さて、くしくもその年の7月1日は、中国共産党創立100周年。『人民中国』誌に記念の短歌を寄せたところ、三津木氏から、次のような長文のお手紙をいただいた。
「劉先生は記念文の中で、短歌『中国の民を率いる共産党生誕100年初心を忘れず』に続き、毛沢東主席が1917年のロシア革命について論じた言葉を引用され、アヘン戦争に敗れた後、中国の先進的な人々は西方諸国に真理を求め、米、英、仏、独、日本に多くの留学生が派遣されたが、学んだ学生は苦労しながらも、中国は救われるという信念を持つようになった。しかし、結局中国は十月革命の道を歩んだ、とありました」
「周恩来総理は、ロシア革命と同じ1917年に19歳で天津から日本に渡る際に詠んだ詩があります。
内容は『長江にて声高らかに歌い、意を決して日本に向かわん。科学をしっかり学び、貧しい祖国を救うべし。達磨のように十年間壁に向き合い、その壁を破らんとす。たとえそれが果たせず、海に身を投ずるもまた英雄なり』であり、帰国後、周青年は革命に身を投じられました。
その詩が現在、神田の中国料理店『漢陽楼』に掲げられています。この店は、周青年がよく利用し、中国からの留学生と語り合っていた由緒のある店です」
「私(三津木氏)は縁があり、周青年の『漢陽楼』来館100周年を記念し、店主からの依頼に応じて、拙句ですが、
春十九漢陽楼の獅子頭
※注『獅子頭』は周恩来好みの肉団子料理
を詠み、今も店内に飾られています」
「また、劉徳有先生の記念文に、『赤色遊覧船』の詩『初心不改克難、人民十億夢圓、圓夢、圓夢……』がありましたが、中国共産党の第1回党大会からちょうど100年、また、周恩来来日100年の節目にも当たり、『初心を忘れず』の6文字がいかなることにも通じる言葉であると信じ、今は心引き締まる思いです」
この感想を読んでいたく感動し、早速三津木氏宛に返事を出した。「周総理のお言葉に触れられ、感激もまたひとしおです。先生が、神田の『漢陽楼』に贈られた名句をいま思い起こしております」
これより先、2020年の暮れに三津木氏より、NHK第5回誌上俳句大会に投句して入選し、表彰された朗報が伝えられてきた。それは、蘭州の黄河流域で見た風景を思い出して詠んだものだそうだ。
天高し羊筏の黄河かな
「この筏に乗り黄河を渡りました。ちょうど今頃の時期でした」と付け加えてあった。
早速メールでお祝いの言葉を寄せた。
「秀句のご入選、おめでとうございます。素晴らしい句です!
秋空の下、たゆたう広々とした黄河、羊筏を操る舟人の表情、そして、先生の晴れ晴れとしたお顔が彷彿されます。
雄大な気迫に圧倒されました。
『お返しに』というのは、おこがましいですが、駄句を一首、
秋晴れや天より来る黄河かな
これは、李白の詩『君見ずや黄河の水、天上より来るを』をもじったものです。
来年から、中国では第14期の5カ年計画が始まります。そこで、新年にちなんで駄句を一首。
任重く行く道遠し初筏
添削をよろしくお願いいたします」
若き周恩来がよく通った東京神田の中国料理店「漢陽楼」のために三津木俊幸氏が書いた俳句。今も店内に掲げられている