香り高い「一枚の葉」の物語(下) 中国茶の伝承者たち

2023-07-26 12:34:00

蔡夢瑶=文

代々伝わる「一杯の茶」  

中国には長い茶生産の歴史がある。広大な茶産地はそれぞれ自然条件が異なり、収穫や加工にもさまざまな方法があるため、多種多様な茶が生み出されてきた。人々は長期にわたる実践を通じて、さまざまな加工技術を創造し、それを利用して、緑茶、黄茶、紅茶、白茶、烏龍茶、黒茶の6大茶、および花茶などの再加工茶を徐々に作り上げ、2000種類を超える茶を生み出してきた。これらの茶と製造技術は、数千年の歴史の中で失われることなく、発展し続けてきた。その背景には、数え切れないほどの製茶職人たちが代々受け継いできたこだわりと守ってきたものがある。 

昨年1129日にユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の人類の無形文化遺産の代表的な一覧表に登録された「中国の伝統的な製茶技術とその関連習慣」は、中国全土の44のサブプロジェクトが共同で申請したものである。その中には、雲南省寧ハニ(哈尼)族イ(彝)族自治県のプーアル(普)茶の製造技術(貢茶の製造技術)、広西チワン(壮)族自治区蒼梧県の六堡茶の製造技術、福建省武夷山の岩茶(大紅袍)の製造技術も含まれている。これから紹介するのは、3人の製茶職人と茶の物語である。 


新鮮な明前茶(清明節以前に摘まれた茶葉)を背負って四川省雅安市の茶葉市場に入る茶農家の人々(vcg)

60代のプーアル茶の伝承者 

中国茶がユネスコの無形文化遺産に登録された後、プーアル茶製造技術の省級無形文化財伝承者である60代の李興昌さんは、感動に満ちた様子でプーアル茶と密接に結び付いた自己の半生を語った。 

プーアル茶作りに従事する家系に生まれた李さんは、幼少期からプーアル茶の香りに包まれて成長した。茶山で生まれ育ち、両親の影響を受けて、茶と共に生活した。毎年、茶摘みの季節になると、両親の忙しそうな姿が今でも脳裏に鮮明に浮かぶという。 

「当時、収穫隊が茶摘みに山へ行くと、往復で4時間かかりました。しかし、私の両親は家で休んでいるように指示されました。最初は不思議に思っていましたが、摘んだ茶葉を一気に加工するため、両親には十分な休息が必要だったのだと後で知りました。彼らの技術は、人々から認められ、信頼されていました」。1987年、李さんもプーアル茶作りの世界に入ることを決意した。それから35年の歳月が流れた。 

雲南のプーアル茶の伝統的な製法は、殷周時代までさかのぼることができる。明代の李時珍が著した『本草綱目』には、「プーアル茶は雲南普で産出する」との記載がある。「3000年以上前、雲南で茶を栽培していた先祖たちは周の武王に茶を献上しました」と李さん。寧県のプーアル茶製造技術は「貢茶の製造技術」とも呼ばれる。清代に雲南のプーアル茶は全盛期を迎え、皇室への献上茶となった。 

歴史上一時的に栄えた無形文化財の技術は、それを継承する者がいなければ、必然的に失われてしまう。2009年、李さんは「プーアル茶貢茶製造技術伝承所」を設立し、茶の製造技術の伝承を目指すことにした。また、12年には伝承拠点を設立し、同時に地元の高級職業学校に伝承のカリキュラムを設置し、プーアル茶コースを地元の成人教育学校および職業学校の必修科目にした。09年から現在まで、貢茶製造技術伝承所および伝承拠点を卒業した製茶職人はすでに2000人を超えている。 

80年代生まれの六堡茶の伝承者 

六堡茶は黒茶の一種だ。清代の嘉慶年間(1796~1820年)にビンロウのような特徴的な香りで全国的な名茶となり、国内外で評価された。1987年生まれの石濡菲さんは、広西チワン族自治区蒼梧県の六堡鎮出身。「茶は私にとって身近でなじみ深い文化です。私には六堡茶の伝統的な製造技術を保護し、伝承する責任があります。より多くの人に六堡茶を知ってもらい、好きになってもらうことが私の使命です」 

2004年、石さんの両親が創設した六堡鎮の黒石山製茶工場が正式に開業した。原料の厳格な管理と手作りの製法にこだわることで、茶葉の自然な風味が保たれ、工場の経営はしばらく順調だった。しかし2年後、石さんの父親が病気で亡くなると、母親も健康上の問題を抱えた。「技術が失われてはいけない」と、高校を卒業したばかりの石さんは大学へ行く夢を諦め、故郷に戻り、六堡茶の製造技術を伝承することを決意した。 

摘み取り、萎凋、殺青から、揉み込み、乾燥、熟成まで、六堡茶の製造には合計16の工程があり、全て手作業で行われる。「茶葉のいり方を学ぶには段階的なプロセスが必要です。茶葉の選択眼、茶の揉み具合、いる時間と温度は、茶の形状、色合い、味わいに影響を与えます」と石さん。 

当時、石さんは茶葉を摘んだり製造したり、各地の茶を集めるためあちこち歩き回ったりしていた。彼女は六堡鎮の各茶山や村を巡り、土壌の特性を知り、各季節の気温や湿度を把握し、そして各村の製茶技術を学んだ。 

「中国茶文化の世界遺産登録の成功で、私たち無形文化財の伝承者たちは非常に喜びました。これは六堡茶や六堡茶の製造技術といった無形文化財への関心がさらに高まることを意味しています」。今日も彼女は「六堡茶をより多くの人に知ってもらう」という初心を抱き、この伝統的な技術を黙々と守り続けている。 

90年代生まれの武夷岩茶の職人 

茶色のシャツにごつごつとした大きな手。福建省武夷山の製茶職人聶霖さん(30)はいつも質素な服を着て、同世代とは異なる落ち着きを漂わせている。「茶の製造技術は無形文化財です。若者はもっと学ぶべきです」。濃厚で甘い茶の香りの中で、聶さんの忙しい一日が始まる。 

外は小雨で、涼しい風が吹いているが、室内には熱気が立ちこめている。「1年間の自然萎凋が終わり、今は高温で茶葉をいるのに最適な時期です」。大きな鉄の鍋がストーブの上に置かれ、木炭は真っ赤に燃えている。暗緑色の茶葉を鉄の鍋に入れると、聶さんは手を清潔にし、袖をまくり上げて指でかき混ぜ始めた。高温によって茶葉が、緑から紫へ、紫から赤へと不思議な色彩変化を起こす。室内にはますます濃厚な茶の香りが広がる。聶さんの手を見ても、やけどしている様子はない。「茶の製造は経験と感覚に大いに頼らなければなりません。以前はよくやけどして皮がむけていました」と、聶さんは煙で顔を赤くしながら温厚な笑顔を見せた。 

福建省武夷山出身の聶さんは、幼少の頃から茶という「神秘的な東方の葉」に強い興味を抱いていた。武夷山の各村に分布する製茶工房は、子どもの頃よく訪れる場所だった。07年、聶さんは父親に連れられて初めて茶の製造工場を訪れ、茶の現代的な製造工程を間近で見学し、有名な製茶職人の腕を自分の目で観察した。親子は帰宅後、自家の茶山を再整備し、「十八寨岩茶廠」を設立した。同時に、聶さんは武夷岩茶(大紅袍)製造技術の代表的伝承者である劉興安氏に師事し、武夷岩茶の製造技術を体系的に学び始めた。 

「十数年間、同業の先輩たちと交流をして、技術は向上しましたが、茶文化、茶産業、茶科学の『三茶融合』は大きな課題であり、私たちはこれからも共同で取り組み続ける必要があります。学びたいことはまだまだたくさんあります」と、聶さんは師匠の下で学んできた日々を振り返る。 

学びながら事業を行い、自家の製茶工場も順調になってきたが、聶さんは徐々にあることに気付いた。茶産業が広範囲に分散しているせいで、より広い学習の場を若い製茶職人に提供するのは難しいということだった。「皆を集めて、一緒に勉強し、成長していくことはできないだろうか?」との考えの下、15年末に福建省南平市海峡茶業交流協会青年連合会が設立され、聶さんは現代的な「見習い制度」を創設した。「私たちの協会では茶の製造技術が無料で教えられています。若者が『敷居ゼロ』で無形文化財の技術を学び始めることを奨励したいからです」 


中国の時代ドラマ『夢華録』に登場した「茶百戯」

伝統的な茶文化に新たな息吹 

年々、多くの若者が製茶業界に新たなエネルギーを注入している。そして、茶の市場では、茶を愛するますます多くの若者が、伝統的な茶文化に新たな息吹を与えている。 

昨年、人気時代ドラマ『夢華録』の放送により、宋代の風雅な茶文化が多くの若者の生活に入り込んだ。特に、泡立てた茶に水で絵や文字を描く「茶百戯」は、多くのネットユーザーが競ってまねをした。また、昨年の秋以降、抖音(ティックトック)などのショートビデオプラットフォームでは「囲炉煮茶」という茶の飲み方が話題になり、関連動画の再生回数は10億回に達した。 

普段ミルクティーやコーヒーを手放せない多くの若者が、茶室に足を運んだり、自宅に茶器をそろえたりして、数人の友人と七輪を囲み、茶を沸かし、周囲に漂う焼きイモや焼き柿の香りをかぎながら、茶がもたらすのんびりした時間を満喫している。実際、このような茶の飲み方は唐代から存在しており、陸羽の『茶経』にも「煮茶」に関する記述がある。伝統的な茶文化は、現代のSNSの力を借り、中国の若い世代の間で伝統的な生活美学を復興している。 

新型コロナウイルスの影響で、オフラインの人付き合いが少なくなったため、若者たちは屋外で人と触れ合うことで、感情のバランスを取りたいと強く願っている。そんな若者たちに、「囲炉煮茶」は快適かつ健康的な人付き合いの方法を提供し、現代の忙しい都市生活の中で「スローライフ」の魅力を示している。歴史を振り返ってみれば、茶は、時代ごとに異なる価値と楽しみを人々にもたらしてきたことが分かる。 

最後に、中国中央テレビのドキュメンタリー番組『茶、一片樹葉的故事(茶、一枚の葉の物語)』から、一節を引用したい。 

「それはもともと一枚の木の葉でした。最初に人類と出会ったとき、それは解毒薬として使用されました。数千年前、中国の人々の手によって、おいしい飲み物に変わりました。それは唐の詩人たちの有名な作品に登場し、遊牧民族の生命の飲み物にもなりました。それは僧侶の旅の荷物に入れられ、仏法と共に日本に渡り、そこで生活における信仰に昇華されました。それは大航海時代の貨物船に乗り、磁器や絹と共に、東洋の古国に対する欧州人の想像を満足させました。それは英国文化の最も優雅な礼儀を豊かにし、日の沈まない帝国の足跡に従って世界中に根付きました。それは長い旅路を経て、枯れ、再生し、咲き乱れました。ただ、忙しく歩き続ける人々に、完璧ではない人生の中でも完璧を感じとることはできる、と伝えるためだけかもしれません。たとえ、一杯の茶を味わう間だけでも」 


重慶の交通茶館でゆったりと茶を飲む市民たち(vcg)

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