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現在位置: 2010年 上海万博上海万博、縦横無尽

万博とボランティア

陳言=文

ボランティアは、中国語では「志願者」と訳されている。無償で仕事をすることは、これまで「服務」(日本語の「奉仕」「奉公」に近い)と言ってきたが、古くなって最近の若い人からは聞かない。

万博会場では緑と白いユニホームを着ているスタッフをよく見かける。ボランティアの人たちである。道を教えてくれたり、何かあるとすぐ近くに来てくれる人たちである。若い人が多いだろうと思ったらそうでもなく、けっこう中年以上の方もいる。あちこちに立って道案内をしたり、得意の外国語を生かし外国人観光客に対応したり、緑のユニホームを着て黙々とゴミを拾ったりしているボランティアがたくさんいる。

かつて「服務」に励む人は、何らかの組織に属していた。そして、都市の住民が同じ都市に住む住民に何らかの奉仕を提供していた。いまのボランティアは、一人の個人として、社会のために地域を超えて奉仕している。一定の期間内、あるいは長期的に、自分の意思で、自分の特長を生かした仕事を無償で受け入れる。いま上海ではたくさんのボランティアに出会うことができ、彼らの行動から中国社会の変化が読み取れる。

2人の「80後」の日本語教育ボランティア

1980年代生まれを、中国では「80後」(バーリンホウ)と呼ぶ。鄂晴さんも「80後」の一人である。しかし、彼女のおばあさんの鄂梅さんも自分は「80後」だと思っている。お年が82歳だからである。

上海が万博開催を申請した2001年ごろ、鄂梅さんは日本語教育を思いついた。「私は3歳ごろ父と日本に渡り、小学校まで日本の教育を受けました。戦後、上海に移り住み、江南造船所に勤めましたが、万博会場の一部は造船所の跡地なのです」と瀋陽で生まれた鄂梅さんは語る。

彼女は、万博が開催されると多くの日本人が上海にやって来ると考え、日本語ができる人材の育成に力を貸すべく、日本語学校を開校した。授業料は無料。唯一の条件は、万博開催期間中にボランティアとして活動することである。一年間の教育を通じて、特に万博関連の日本語がなんとか使えるレベルを目指す。

子どものころ自然に身につけた日本語で、学生と日本語で会話する。「てにをは」の使い方はなかなかうまく説明できないが、「その時には、きちんと文法を学んだ孫娘に説明してもらいます。彼女が説明した方が学生は納得してくれます。私はなかなかそこまではできません」と、彼女は孫娘の鄂晴さんを最大の自慢にしている。

10年で700名以上の卒業生を出した。もし入学金だけでももらっていたら、(上海の相場では一人1000元ほどだから)少なくとも2人は、70万元(約1千万円)の収入を得られたはずだ。しかし、自分はボランティア、卒業生もボランティアで万博に奉仕さえすればいいという思いは一度も変わらなかった。

その間に鄂梅さんは80歳を過ぎたが、初志を貫き教育を続けた。それどころか、孫娘のサポートを得て、授業はますますスムーズになっていった。万博会場で、日本の国旗のバッジをつけたボランティアに出会ったら、その人は2人の「80後」の教え子かもしれない。

各地、各業種からのボランティア

陳言

コラムニスト、『中国新聞週刊』主筆。1960年に生まれ、1982年に南京大学卒。中日経済関係についての記事、著書が多数。

「私は香港人です。北京オリンピックの時に生まれて初めてボランティアをし、上海は2回目となります。次は広州アジア大会の時にも出かけていきたいです」と、55歳の黄兆雄さんは明かす。7月9日、黄さんを含め百名のボランティアが香港から万博会場に入った。

広東語が母語の黄さんは、中国語の共通語がそれほどうまく使えず、また会場の交通状況、サービス施設の所在地などについても明るくない。「事前に上海のボランティアさんにいろいろと教えてもらい、合格して初めて万博会場に入れてもらいました」と、彼は事前の努力があったことを強調する。

33歳の江静君さんは、緑のユニホームを着ている。ほかの103名とともに主に会場のゴミを収集している。専門のゴミ回収のスタッフと間違われることにももう慣れた。

万博開催前、上海市都市建設投資開発社の呼びかけに応えて、開催期間中のゴミ収集ボランティアに申し込んだ。万博から1日に出るゴミの量は150トン以上。専門のゴミ収集スタッフのほかに、江さんのようなボランティアも大きな役割を果たしている。

「巡回途中に熱中症の患者、迷子に出会ったら、私たちはいち早く助けの手を差し伸べます。訓練を受けているので、対処も素早いのです」と話す江さんの話からは、ボランティアとして他人を助ける喜びが伝わって来る。

会場の外でもボランティア精神は浸透しつつある。市内でボランティアをしている黄暁春さんは、上海に来たばかりの人に道を教えるなどしている。毎日、ボランティア・センターに戻ると、必ず冷たい緑豆のスープが提供される。緑豆のスープは熱中症を予防すると言われているが、「センターの人もボランティアであり、彼らからもらったスープはまた特別な味がします。みんながボランティアであり、ボランティアのためにボランティアが活動しているのだと感じます」と、黄さんは少々興奮した口調で話す。

五輪後の北京では今も赤い腕章を腕に付けて、団地の安全のために巡回しているおじさん、おばさんを時々見かける。ボランティアは北京に残った。万博後の上海にも、それは残るだろう。大きなイベントの後、個人の意思で続けるボランティアが残っていく形が中国社会に定着しつつあり、市民社会が徐々に成熟していることが感じられるのである。

 

人民中国インターネット版 2010年8月23日

 

 

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