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大洋洲鎮 江南の青銅王国

 

丘桓興=文 魯忠民=写真

1989年9月20日、江西省新幹県大洋洲鎮の農民が、長江の支流の贛江のほとりで護岸工事をしていた時、突然、3千年以上も眠っていた青銅器をある青年のスコップが目覚めさせた。その後、農民たちがつぎつぎと十数点の青銅器を掘り出した。国家文物局に報告しその許可の下、江西省文物考古研究所と新幹県博物館は、考古発掘隊を編成し、ここで緊急発掘を行った。

新幹県大洋洲の商代青銅博物館

1ヵ月後、この40平米足らずの商代(約紀元前1600~同1046年)の墓から、青銅器、玉器、陶磁器など1368点が発掘された。中でも475点の種類が多く、奇異な造型、精巧な作り、美しい模様の青銅器は、中国内外の考古学者に高く評価され、大洋洲は「江南の青銅王国」と称された。

新幹県の大洋洲は、その北西20キロ離れた樟樹市の呉城遺跡と、同じ商代の虎方呉城文化(長江中流の地域)に属する。研究によれば、贛江の水上輸送の便もあって、当時虎方と中原(黄河中流・下流)は、銅貿易により文化交流を盛んにし、中原の商代文化の色彩と現地の特色を兼ね備えた青銅文化を形成したという。

伏鳥双尾虎(写真提供・江西省博物館)

乳釘獣面紋虎耳方形青銅鼎(写真提供・江西省博物館)

中原に由来する青銅文明

現在、大洋洲鎮の商墓遺跡の周囲は、すでに保護壁に囲われ、その前に新幹商代青銅博物館が建てられた。朱福生館長は、家宝を数え上げるかのように出土文物を我々に紹介した。青銅器475点、鼎、鬲(3本の中空の脚をもつ古代の蒸し器)、大皿、壺、卣(銅製酒器)などの祭祀用道具は10種48点、鎛(大鐘)、鐃などの楽器は2種4点、犂、斧、チョウナ、シャベルなどの農具、工具は18種143点、戈、矛、刀、剣などの兵器は11種232点、双面神人像、伏鳥双尾虎などの雑器48点。そのほか、大量の精美な玉器、陶器、原始磁器など。商代江南の生活絵巻と高度に発達した青銅文明を大いに見せてくれる。

青銅器の発明と使用は、人類技術革新の大きな飛躍であり、文明の重要な指標の一つである。中国の西北地区から5千年前の銅器が出土した。その後中原が青銅器の中心地となった。

青銅器のなかで、もっとも注目されたのは、礼制を現す祭礼器である。3千年前の中原の商王朝には、厳格な礼儀制度があった。例えば、王室、諸侯などの貴族は宴会、祭祀、葬儀、征戦などの重要な活動で使った青銅祭礼器の数は、自分の地位に見合ったものでなければならない。さもなければ、非礼、僭越と見なされる。

鼎は本来物を煮たり盛ったりする食器である。しかしもっとも重要な祭礼器としての鼎は、身分と権力の象徴となる。重要な儀礼の際、貴族の等級が異なれば並ぶ鼎が異なる。――鼎の数が多ければ地位はより高く、より多くの肉食を楽しむことができる。『春秋・公羊伝』によると、「礼祭、天子九鼎、諸侯七、卿大夫五、元士三也」と記載されている。天子が九鼎を使うことから、後世、最終決裁の言葉を形容して「一言九鼎」と言った。その後、鼎は国家と王位の代名詞となった。春秋時代(紀元前770~同476年)、楚の荘王は兵を率いて戎を攻めた時、国都洛陽の洛水辺で閲兵した。そして、慰問に来た使者に商王の代々伝わる宝である九鼎の大小と軽重を尋ねた。「問鼎」という言葉は、政権を奪取しようとする野心家を指す。

商の時代に、中原の青銅文明は周辺の城郭都市へ伝播し、その中には長江中流の虎方呉城文化も含まれる。虎方の瑞昌銅嶺(江西省)は銅を産し、しかも大量の銅で礼器と兵器を鋳造する必要のある商王朝は銅に事欠く。そこで、虎方は商王朝と銅貿易を行い、その接触の中で中原の鋳造技術を学び、商王朝の政治制度、宗教風俗と礼、楽文化などを取り入れた。したがって、大洋洲の青銅器の中、器の組合せ、造型、文様、あるいは鋳造技術どれを見ても、中原青銅文化の模倣が窺える。

もっとも代表的なものは「乳釘獣面紋虎耳方形鼎」で、高さ97センチ、口の長さは58センチ、幅は49.3センチ、重さ49.2キロ。長方の升の形をして、鼎の腹部の中ほどには模様がなく、左右両側と下部に並んだ乳釘紋を飾っている。上部には一組の獣面紋がある。鼎の4本の脚は円柱状で、それぞれ吉祥を象徴する羊頭の浮き彫りが施されている。これらの特徴はいずれも河南省鄭州で出土した「獣面乳釘紋方鼎」と相似する。ただ、二つのアーチ形の耳上で、それぞれ一匹の生き生きとした虎が腹ばい、虎方人の虎崇拝の伝統文化を表している。

精錬鋳造、銘文と酒器の差異

虎方は中原文化を学ぶ際、自分の伝統文化と技の保護にも留意した。

精錬鋳造に関して、専門家は大洋洲青銅器にある合わせ目から、当時まず各部分を鋳造し、それから接続するという鋳造法で大型青銅器を鋳造したことが分かった。例えば、上述の方鼎は、26の部分に分けられた。最初に腹壁と耳を鋳造し、次に鼎の底を造り腹壁と接続、さらに鼎の脚を鋳造し鼎の底に接続、最後は耳上の虎形の飾りを加える。この鋳造法は、中原の数十の溶鉱炉を同時に使って銅を溶融したあと、全体を鋳造するのとはちょっと違う。

大洋洲の青銅器から、虎方と中原とが、社会経済、思想文化と生活風習の違いがあることも分かった。

呉城遺跡から出土した113点の陶磁器、石器に、文字あるいは符号が刻まれている。大洋洲青銅器の上には、各種の綺麗な図案と模様が施されている。ところが、これまでどの青銅器からも銘文が見つかったことはない。これは、中原ではよく青銅器上で「司母戊」という類の銘文を刻む習慣と大いに異なる。

虎方は江南の湖沼平原に位置し、河川網が縦横に走り、気候は蒸し暑く、稲作に適する。しかし、土質は粘着質で、耕作しづらい。そこで、銅の産地という利点を活かし、青銅の犂、すきの刃、シャベル、チョウナ、鎌などの農具を鋳造し、耕作の負担を和らげ、農業を発展させた。これは、中原が大量の精美な祭礼青銅器を鋳造したものの、農具がめったに見られないのと明らかに異なる。

そのほか、同じ祭礼器であっても、大洋洲から出土したのは、鼎や、鬲、甗(食物を蒸す道具)などの炊事道具と簋、豆(たかつき)などの食器が多く見られる。八点の酒器も、貯蔵、酒を注ぐ壺、卣、瓚などで、爵(3本の脚がある昔の酒器)など酒飲み用の器具は一切ない。虎方は「食」を重視し、中原は「酒」を重視する。商王武丁の王妃婦好の墓から出土した214点の祭礼器のうち、酒器が4分の3を占めていた。商王朝の「酒による政治」の風潮が見て取れる。

新幹県贛江周辺で発見された戦国時代の食糧貯蔵庫遺跡

食糧貯蔵庫遺跡の中には炭化した米が大量にあった

4本脚の「甗王」「火鍋の先祖」ほか

大洋洲の青銅器の器の形はほぼ中原の商文化から生まれた。しかし、虎方の鋳物職人は中原文化に縛られず、地元の自然環境や生活習慣、文化伝統、宗教信仰、審美眼などに基づき、中原の青銅器の形や装飾に改造や融合を取り入れ、独自の地方特色を備えた呉城青銅文化を作り出した。大洋洲青銅器の形の改造例はかなりある。

「三足鼎立」という言葉のように、中原の円鼎はみな3本脚であるが、甗も3本脚である。甗の上部はご飯を炊く甑で、腰部は穴のついている銅の網、下部は水をいれて蒸す鍋、すなわち3本脚の鬲である。虎方は食を重んじるため、彼らの作った甗は格別に大きい。高さ105センチ、甑の口径は61.2センチ。おそらく当時の虎方人は「甗王」と呼ばれるこの大きな蒸し鍋を安定させるため、もう1本の脚を付け加え、4本脚の甗にしたのである。

中原の青銅卣はほとんど丸みを帯びた脚があるが、大洋洲から発見された二つの円腹卣はそのような脚はなく、胴体につながる三つの錐形の脚がつけられ、丸い胴体の卣と錐形脚の鼎が一体になっている。この改造・融合によって、卣を火に載せて、食べ物を煮たり、酒を温めたりすることができるようになった。

虎方の人は本当に鼎の脚作りに工夫を凝らしている。中原の鼎の脚は柱形や錐形が多いが、大洋洲の円鼎はその2種類のほかに、より多く見られるのは平脚、あるいは虎形、魚形、夔形である。その中の魚形の平脚鼎は、魚の口が大きく開き、鼎の胴体をしっかりと噛みこんでいる。丸い目や鋭い歯があり、体は平らで、鱗が重なっている。この鼎は大洋洲独自のもので、当地の河川が縦横に走る米と魚の豊かな水郷の生活環境と大いに関わりがある。平脚鼎は美しいうえ、材料の銅を節約できるため、のちに中原や南方各地に伝わった。

虎方の鋳造職人が中原の青銅文化に革新と改造を取り入れた実例は多い。たとえば、中原の青銅鬲と鼎を巧みに融合させ、鬲形鼎を作り出した。三角の戈や細長い刀の2種の中原兵器からそれぞれの長所を取り入れ、より攻撃力の高い「勾戟」を作り出した。また、青銅瓚はお酒をくむための、取っ手のついた杯の形の柄杓である。重要な祭祀儀式を行うたび、君主はそれを使って、お酒の入っている罍からお酒をくみ、先祖にささげるようにゆっくりと地に撒く。大洋洲で爵などの酒飲み用の器具ではなく美しい瓚が発見されたことは、虎方の神や先祖への敬虔さを示している。特筆に値するのは、この「青銅瓚」という名前は日本の学者、林巳奈夫氏による命名だが、中国の学術界の賛同も受けている。

大洋洲の青銅器には、地元の陶器や石器、木器の造形を真似た農具、工具、兵器、礼器が少なくない。豆は肉や野菜を盛るたかつきである。大洋洲から出土した仮腹青銅豆は地元の仮腹陶豆をまねて作ったものである。「仮腹」の豆の上部に目に見える底があり、その下に隠れた底がある。二つの明暗の底の間には空っぽの腹があるが、これを「仮腹」という。この青銅器は特別な造形をしており、美しい紋飾が施され、もっとも古く、もっとも美しい青銅豆である。

もっとも面白いのは 「火鍋の先祖」と呼ばれる温鼎である。高さは20七センチ、口の幅は20センチくらいで、精巧で立派である。この鼎がちょっと珍しいのは、一方の仮腹に開閉できるたき口が設けられていることである。寒い冬に、仮腹に炭を入れると、鼎内の食べ物が冷めずに温かい。というわけで3千年の歴史を持つ温鼎が「火鍋の先祖」と呼ばれるようになった。

珍しい装飾文様

大洋洲青銅器の装飾の特徴は、鼎や甗などの器具の耳に、虎、鹿、鳥などの動物の立体彫刻が施されていることである。たとえば、「獣面紋鳥耳夔脚青銅鼎」では、二つの耳に立つ鳳凰は膨らんだ目、尖ったくちばし、おさめた翼、緩めた尾。とくに頭上にある高々と突き出た冠は、鳳凰の美しさや気高さをいっそう引き立て、商王朝の鳥崇拝をほうふつさせる。

4本脚の「甗王」の二つの耳には、それぞれ一匹の鹿が立っている。鹿は角を立てて、短いしっぽを上向きに巻き、身には鱗片をまとう。これは雌雄で、互いに振り返って見つめる。非常にかわいらしい。民間では、おとなしくてやさしい鹿を吉祥と幸福の象徴とする。虎方の職人が鹿をもっとも目立つ耳に鋳造したのは、おそらく神霊の加護をこいねがったためだろう。

大洋洲の青銅の祭礼器、楽器、そして兵器、農具、工具などの表面には一般的に、それぞれ異なる装飾文様が施される。よく見られる文様は獣面紋、虎紋、燕尾紋、連珠紋、羊頭紋、魚紋、蝉紋、雲雷紋など、20種類以上ある。その中の「燕尾紋」は、前部が尖って後部が二つの翼に分かれ、燕の尾にそっくりであるため、名付けられた。しかしある専門家はこのような長方形の連続した図案は、竹を薄く削ったひごでかごを編むとき、交差して編む横向きの人字紋と関係があると考える。

また、一部の兵器には玉石が象嵌されている。たとえば、銅戈の内側に虎の頭が装飾され、虎の目にトルコ石がはめこまれていた。トルコ石は抜け落ちたものの、まさに「画竜点睛」、妖艶な青緑色で生き生きとした虎の目を表現し、持ち主の高い地位と権力を示した。

双面神人頭像 (写真提供・江西省博物館)

獣面紋青銅豆

獣面紋鬲形青銅鼎

獣面紋鹿耳四脚青銅甗 (写真提供・江西省博物館)

青銅器に見る虎崇拝の文化

新幹博物館に入ると、数多くの虎の造形や虎の図案の青銅器が目に入り、あたかも虎文化の世界に入った感がある。

朱館長によると、48点の青銅祭礼器のうち、両耳に立った姿の虎の立体彫刻が施された鼎が16点、平脚を虎の形に彫った平脚鼎は9点、しかも平脚が透かし彫の形が変わった猛虎になっている。青銅器の表面に、頭を下げ、口を開いて、体を伸ばしながら、しっぽを緩めて歩く虎の模様などの線刻が施されている。注目すべきは「伏鳥双尾虎」。長さが53.5センチ、高さ25.5センチ、体が大きい。口を開いて長い牙が見え、両目は丸くて膨らみ、両耳は立って、4本の脚は地に伏している。蹲って跳び上がりそうな様子である。一方、背中に鳥が立っており、長いくちばしと丸い目で、安らかな様子である。研究によると、この神器には深い寓意が託されている。伝承によれば、商の始祖・契の母親の簡狄が川で入浴していたとき、玄鳥(四つの翼を持つ伝説中の鳥)が落とした卵を飲んで懐妊し、契を生んだという。そこで、玄鳥が商のトーテムとなった。虎の背中に立ち、柔らかな表情をしているこの鳥は鳥崇拝を持つ商王朝が、虎崇拝の虎方人との親睦を望んでいることを意味していると、一部の学者は考えている。

研究によれば、虎方は中原に暮らしていた虎崇拝を持つ夏(約紀元前2070〜同1600年)の人の一系統である。商が夏を討ったころ、夏人の一系統が中原に残り、商に融合した。別の一系統が南の赣(現在の江西省)に移住し、長江中流地域の虎方人になった。もう一つの系統が西部に移り、しだいに南に移動し、現在西南地域に暮らすイ(彝)族、ペー(白)族、トゥチャ(土家)族、ナシ(納西)族、プミ(普米)族、ラフ(拉祜)族などの民族を形成した。彼らは虎をトーテムと崇め、とくに毎年の「松明祭り」や「虎祭り」が催されるとき、さまざまな虎崇拝にまつわる行事やイベントが行われる。

 

人民中国インターネット版 2010年9月27日

 

 

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