北京の「敦煌」雲居寺の石刻仏典

2021-12-20 16:12:31

馬場公彦=文・写真

中国版「GO TO」というのだろうか、今年の国慶節は延べ5億人を上回る旅行客で、全国各地の観光地がにぎわった。だが、わが北京大学は依然として北京から出るのには大学の許可がいる上に、北京に戻るにはPCR検査が必要だ。北京から出ることは諦めて、友人に誘われ郊外日帰り旅行を楽しむことにした。

訪れたのは北京の中心街から南西に80㌔のところにある房山区の石経山雲居寺と、北東に80㌔のところにある懐柔区の青龍峡。いずれもドライブで行き、高速料金は国慶節休暇中は無料で、早朝出発だったため往路は渋滞を免れたが、いずれも帰路はノロノロ運転。友人たちとの語らいを楽しんだ。

青龍峡からは明代の長城が重畳と幾筋も連なり、城壁に沿って汗をかきながら登った。石経山は長い石段を上った果てに、岩肌にへばりつくようにいくつもの仏典を石刻するための工房の洞窟が穿たれていた。この山の岩質は硬く耐火力の強い花崗岩で石刻に適していた。

石経山の麓には小さな川が流れ、北京市内とはさほど離れてはいないながらも幽邃の地だ。そこに雲居寺という仏教寺院がある。隋代に開かれた古刹であるだけでなく、ここで隋・唐・遼・金・元・明と6朝750年にわたって、石版に仏典が刻まれてきたのである。

1934年、この地を訪れた東方文化学院京都研究所(京大人文科学研究所の前身)の塚本善隆らの報告(『房山雲居寺研究』1935年)によると、経典の数は1122部3572巻、石刻経版は1万4278枚に及び、「房山石刻大蔵経」と称される貴重で膨大な文化遺産である。

雲居寺を開山し石経事業を始めたのは、天台宗僧侶の静琬である。南北朝北周の武帝の廃仏毀釈政策と、仏教の末法思想の影響を受け、隋朝の興仏政策もあって、末法の世にあっても、石に刻んだ仏典さえあれば、仏教は再興できるとの信念からであったという。石刻には漢族だけでなく満州族・チベット族さらには高麗時代の朝鮮の僧侶も従事した。寺院には合計九つの蔵経閣が設けられ、石経が満杯になると石の門で入り口を塞ぎ、鉄で封鎖して保護したという。

「西游取経」の玄奘三蔵の遺業を彷彿させるような巨大事業で、寺院が「西域寺」の異名を持ち、「北京の敦煌」と称されるゆえんである。一部が展示されている石版だけでなく、建築や碑文も見事で、とりわけ、隋代から明清に至るまで、仏像や仏塔など、建築物が残っている。元代に開かれた首都である北京に、それ以前の歴史的建造物が残っているのは、意外であった。遼代に築かれた南北両塔は北塔を残すのみであったが、唐代の土台部分に遼代の塔が乗せられ、四周に隋代の人身大の小塔が配せられた伽藍(僧侶が集まり修行する清浄な場所)は壮観であった。

文献『房山雲居寺』(閻文儒、1955年)によると、1942年、日本軍が空爆をして南塔を含め北塔以外は全滅したという。だが古い建築物はそこかしこに残っているし、空爆によるものと思われる弾痕が残っている。そのようないわれのある寺院を散策するのは、日本人として肩身が狭い。塚本らの調査と整理の行き届いた報告書に、破壊前の南塔をはじめ寺院の威容を確かめることができるのはせめてもの慰めである。

 

雲居寺の北塔

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