北京の水路をたどって~王朝編~
馬場公彦=文・写真
北京市通州区にて。杭州に通じる京杭大運河の北運河と、什刹海に注ぐ通恵河がここで十字に合流する
北京に赴任するまで抱いていた北京市の地理的イメージは、雨量が少なく、周辺に大河は流れておらず、農耕に適さない、乾燥した大地であった。2200万人ほどの過密人口を養い維持していく上で、恒常的な水不足に悩まされていることだろうと思い込んでいた。
一方、東京湾に面し、川・池・濠・湧水・用水が縦横に張り巡らされた水都・東京の地勢と比べてみると、確かに北京は「水気」に乏しい。だが、今は渇水・水質汚染・洪水などの顕著な水問題には悩まされていないようだ。
都市経営にとって最重要課題は、農工業および飲用の豊富な用水を安定供給し、治水対策を施して水害のリスクを回避し、水運を整備して大量の物資を遅滞なく輸送することである。いわば都市の水脈は人体の血脈のようなもの。では北京は水源と水利をどのように確保したのだろうか。
最近、頤和園博物館で開催されている清朝宮廷の山水画特別展示を参観した。乾隆帝の時代、玉泉山の豊富で清冽な湧水を飲用水として京城に引き込み、運河を整備して西郊の稲作開発に利用したという。その運河の溜池・調整池として今の円明園・頤和園・紫竹院公園・玉淵潭公園などが設けられた。総称して「三山五園(万寿山・香山・玉泉山と頤和園・静宜園・静明園・暢春園・円明園)」と呼ばれる。頤和園内の昆明湖から出た昆玉河は南下して永定河の導水渠に注ぐ。
玉泉山を水源とする運河を開削して水利・治水計画を考案・実施したのが、大都として史上初めて北京に遷都した元代の科学者郭守敬。彼は玉泉山の水を、積水潭を経由し外城を巡らせて通州の北運河につないだ。運河は時の世祖フビライによって通恵河と名付けられた。北京に江南の豊かな糧食を供給する重要な水運ルートが通じた。
通州に至る運河とは、かつての余杭(今の杭州)と北京をつなぎ、東西に流れる海河・黄河・淮河・長江・銭塘江の五大大河を南北に貫く1700㌔を超える世界最長の人工運河・京杭大運河。隋の煬帝が余杭と当時の都・洛陽を経由して涿郡(北京)へと至る運河を部分的につないだ。1293年に郭守敬が洛陽を経由しない南北の短縮ルートを開いた。2014年に世界遺産に登録されている。
京杭大運河の北の起点となる北京市東郊の通州を、氷雨の降りしきる2月の休日に訪ねた。いまは副都心開発が進んでいるが、北運河と通恵河が交錯するエリアは広大な文化旅游風景地区となっていた。蓮の露をデザインした北運河に架かる千荷瀉露橋や龍のモニュメント・東方彫塑などのモダン建築が目を引く。ランドマークとなっている高さ56㍍の燃灯塔は北周時代に創建されたもので、13層の廂には2248個の銅鈴が下げられ、涼やかな風のメロディーを奏でる。その名の通り、運河を行き交う運搬船の灯台の機能を果たした。河口堰に建てられた大光楼は験糧楼とも呼ばれ、荷物検査をした上で市街地に運ぶに当たって、この付近で大型船から小型船に積み替えていた。
ところが1900年の義和団運動で八カ国連合軍によって施設は破壊され、以後、物資輸送は陸運に切り替わり、漕運は廃れた。いまや輸送船の姿は全く見えない。その寂しい光景は、かつて銭塘江の運河取水口付近で眺めたことのある、中型運搬船が行き交う水運のにぎわいと対照的だ。
円明園・頤和園をはじめとする「三山五園」もまた、清朝宮廷の没落によって維持管理できなくなり、1860年の英仏聯軍や前述の八カ国連合軍の破壊などによって廃墟に近くなり、水源用水としての役割を終えた。
では首都の水源の巨大な需要はどうやって賄ってきたのか。それには今なお北京市民が治水の恩恵にあずかっている、新中国成立後の巨大な治水プロジェクトに目を向けなければならない……。